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2019年1月 最高の献げ物

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2章11節)
牧師 黒田浩史

イエス様がお生まれになったとき、占星術の学者たちが東の方からやって来ました。この人たちは、ペルシアの宗教の祭司のような人たちだったと言われています。このことは、旧約時代から預言されていて、「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」と言われています(イザヤ60:6)。
旧約の預言の通りに、東の方からやって来た学者たちは、イエス様に高価な贈り物を献げました。

学者たちは、星に導かれて東方からユダヤへやって来ましたが、ついに幼子イエス様のおられたベツレヘムという町まで来ました(2、9節)。
彼らはイエス様のおられた家に入り、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました(11節)。いずれも少量で高価な品物であり、遠くから持ち運んで来るのに適したものでした。

彼らは外国人でしたので、旧約で規定されているように犠牲の動物を献げてイエス様を拝んだわけではありませんでした。しかし幼子イエス様は、真心のこもった彼らの贈り物を喜んで受け取られたことでしょう。
彼らが献げた贈り物は、イエス様とご両親にとって大変役に立つものでした。この後、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させましたが、イエス様とご両親は虐殺を逃れるためにエジプトへ行かれました(13-18節参照)。学者たちが献げた高価な贈り物は、その際の旅費や滞在費に充てられたと言われています。

学者たちは彼らなりの仕方で真心を込めてイエス様を拝み、イエス様の役に立つ贈り物を献げました。
同じように私たちもこの年、真心を込めてイエス様を拝み、人の役に立つような愛の業を行いたいものです。

兵庫地区長老執事委員研修会報告

2018年11月25日(日)14:30~16:30に、住吉教会の礼拝堂で、兵庫地区長老・執事・委員研修会が開催されました。出席者は、70名(内教職者7名)で、当教会からは、黒田浩史牧師他、長老・執事11名が出席しました。
テーマは「兵庫地区における伝道協力」で、4名の牧師先生による発題がありました。
西宮中央教会の藤田浩喜牧師は、兵庫地区の教職者の現状とともに11月5~6日に実施された中会伝道協議会の報告をもとに近畿中会における課題についてお話されました。無牧の多くの教会が次の牧師を迎えるのがどんどん厳しくなっている、主日礼拝を日曜日の午前中に持つというのが当たり前と考えない発想も大切だ、隣の教会の無牧を他人事と考えないで、労苦や悩みを分かち合うことが必要だ、各個教会主義を克服し,地域の教会全体における「教会」の模索、地域や地区を俯瞰した教職の配置と伝道協力の検討、ITの活用による礼拝順守等、現状における課題や方式についてお話くださいました。そして、新しい試みを恐れず、初代教会における姿を今に生かし、信徒が主体となる群れであるようにと励ましてくださいました。
神戸湊西教会の田部朋彦牧師は、すでに15年間無牧であった姫路伝道所に今年5月より指導教師として遣わされ、第2と第3は午後3時よりの礼拝で田部先生は第2の礼拝説教を行い小会議長も務めているとのこと、第1と第5主日は田中豁先生の説教集のテープを聞いたり原稿の代読をしたりして第3と第4は引退教師による説教であるとのこと。すでに、ITを使わざるを得ない状況にあり教会と伝道所が協力し合って乗り越えていきたいとの発題でした。
夙川教会の石束岳士牧師は、布引教会の指導教師で、礼拝は引退教師の応援に頼っていること、小会の指導は平日に行っていること、幸い教勢の変化はなく、牧会は長老が自分たちで動いて教会員を配慮しているとのことでした。台風などのため教職が来ることができなかったこともあったが、その際には長老が講壇を守ったとのこと、無牧の中で、自分たちで礼拝を守るという長老の意識変革がなされたことは素晴らしいとの報告でした。
住吉教会の黒田浩史牧師は、宝塚売布教会の指導教師として、月に一度祈祷会と小会の指導に行かれているとのことです。本年4月より鈴木攻平先生が秋田教会からお戻りになられたので、礼拝説教とともに午後の集会の指導や夏季派遣された神学生の指導もお願いしたとのことでした。鈴木先生とは連絡を密にとって、小会議長の務めを果たすようにしているとのことでした。
10分間の休憩後の後半は全体協議会でした。会場から出されたご意見としては、教職者の不足は神学校の問題でもあること、教職を養成しやすい状況づくりをするなど根本的に対応しないと解決できないのではないか、引退教師を応援に依頼する際には常にいざという場合を想定して、準備しておかなければならない、教職の年齢構成を考え神学校入学生の見込みデータを明らかにするなど日本キリスト教会全体が危機感を持って臨んでほしい、神学生を養成しているいろいろな機関に求人広告を出すなど働きかけられないかなど、厳しいご意見も出ました。
最後に発題の先生方から、「皆が危機感をもって覚悟しなければならない」「今までは教会同士の交わりであったがこれからは協力だ」「現実に青年に働きかけ神学校に関心を持ってもらうようにしている」「これからは労苦をともに担うことが大切だ」といった締めのお言葉がありました。
2時間があっという間に過ぎた研修会でした。今年は参加のための各教会の負担金が100円×長老数分という額でした。それでも、10分間の休憩時間に集会室で出された婦人会ご奉仕によるお茶の接待は大いに喜ばれ、予算の範囲内の心ばかりのお茶にもかかわらず、参加者の心と体を温めることができました。厳しい現実の話が多い中、ほっとする10分間でした。

日本キリスト教会第68回大会

日本キリスト教会第68回大会は、10月17日(水)から19日(金)まで札幌北一条教会にて開催されました。住吉教会からは私(黒田)1名が正議員として出席しました。
議事に先立って開会礼拝が行われ、議長の冨永憲治教師(柏木教会牧師)がマタイによる福音書14章22~36節から「向こう岸へ」と題して御言葉を語られました。
新議長に久野真一郎教師(札幌琴似教会牧師)、新書記に傳英二教師(森林公園教会牧師)が選出されました。
今回は議事の他に2日目の午後、「大会の代議員制について」というテーマで協議会が開催されました。現在のように各教会、伝道所から議員を送るのでなく、各中会からその規模に応じて数名の代議員を送って大会を構成するというものです。具体的に何名送るのかなどの細かな部分はまだ議論の余地がありますが、大部分の出席者は代議員制への移行に賛成のようでした。
これと並んで今回の大きな関心事として、大会事務所と神学校校舎の今後のあり方についての議論がありました。昨年の大会において、この件を検討するための委員会が立ち上げられ、その報告がありました。結論としては、現住陪餐会員の減少による財政縮小、現大会事務所及び神学校の場所(埼玉県川越市)は都心から遠いなどの理由により、都心のどこかの教会の会堂内を借りて授業を行い、神学生は近くのマンションなどから通うというものです。都内の諸教会から近くなれば、学生以外にも開かれた講義を行ったり、大会事務の発送作業などにボランティアを募りやすくなったりします。種々の意見はありましたが、この件についても大部分の議員が賛成のようでした。
建議案としては、「日本キリスト教会創立70周年記念事業に関する建議案」が可決されました。「日本キリスト教会創立70周年信仰の宣言」(仮)の起草と制定、70周年記念の讃美歌の募集、ロゴマークの作成がその内容です。
教師試験には、澤谷由美子(湘南教会伝道師)、山本盾(尾道西教会伝道師)の各教師試補が合格しました。
選考委員会により、私は引き続き伝道局理事(任期2年)に選ばれました。
大会の前日には、全国教職者会が札幌琴似教会にて開催されました。今回は近畿中会が当番中会であり、兵庫地区が担当として奉仕しました。「新しい聖書翻訳について」と題し、翻訳事業に関わられた住谷眞教師(茅ヶ崎東教会牧師)による講演がありました。この翻訳は、日本聖書協会から今年の12月に出版される予定です。

2018年12月 目覚めて待つ

「いつも目を覚まして祈りなさい。」
(ルカによる福音書21章36節より)
牧師 黒田浩史

終末についてのイエス様の御言葉です。終末すなわちこの世の終わりが訪れる前に、次のようなことが起こると仰せになりました。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言う」(8節)。「戦争とか暴動のことを聞」く(9節)。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(10-11節)。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(26節)。

このようなことが起こった後にこの世の終わりが訪れるというのですが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とも仰せになっています。「子」とはイエス様のことです(マルコ13:32参照)。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」とも仰せになりました(34節)。

しかし、イエス様を信じる私たちに対して「あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と言われているように、救いの完成を待ち望み、希望のうちに終末を迎えるようにと言われています。
そして、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と仰せになりました(34節)。この御言葉は、この世の物質的な豊かさを警戒するようにという意味でもあります。物質的に豊かであると、神様に頼らなくなる危険があるからです。

ですから、常に心を神様の方へ向け、「いつも目を覚まして祈りなさい」と仰せになりました(36節)。「いつも目を覚まして」というのは、夜も寝ないでという意味ではありません。「いつも心を神様の方へ向け、終末への相応しい備えをするように」とイエス様は仰せになるのです。
そうした相応しい備えとして、イエス様は愛の業を勧めておられます(マタイ25:31-46参照)。

2018年11月 最も重要な掟

「第一の掟は、これである。…『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(マルコによる福音書12章29-31節より)
牧師 黒田浩史

一人の律法学者がイエス様に、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました(28節)。
イエス様は、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」と仰せになりました(29-30節)。
これは、旧約の申命記に書かれている掟です(申命記6:4-5)。申命記ではこの言葉に続いて、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と書いてあり(申命記6:6-7)、とても大事な掟でした。

次にイエス様は、「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」と仰せになりました(31節)。
これと関連して他の箇所では、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」とも言われています(一ヨハネ4:20-21)。

旧約では貧しい人や寄留者(土地を持たない外国人)などを大事にするように勧られています(レビ19:9-10参照)。
この箇所の冒頭には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」ともあります(レビ19:2)。神様が私たち人間を愛されたように、私たちも隣人を愛することによって、聖なる者になるようにと言われています。

「愛」という言葉は、日本語では主に男女の愛を意味する言葉だったそうです。キリシタン時代には聖書の愛を「ご大切」と訳しました。相手を思いやる行いのことです。
私たちにとって隣人とは誰のことでしょうか。イエス様の御言葉にもとづいて、少しでも隣人愛を実行できるようになりたいものです。

2018年10月 離縁について

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」
(マルコによる福音書10章6節)
牧師 黒田浩史

ファリサイ派の人々がイエス様に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました(2節)。彼らは、当時の宗教の指導者たちでした。イエス様を試そうとして、こう訪ねたのです。

イエス様は、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました(3節)。モーセは旧約時代に神様から律法を授かり、人々にそれを教えた人物です。

彼らは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました(4節)。

イエス様は言われました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(5-9節)

 

旧約の創世記には、天地創造の個所で「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世記1:27)。そして、神様は最初の人(男)を創造されると、彼に合う助ける者として女を造られました(創世記2:22)。

イエス様は「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われましたが、創世記には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書いてあります(創世記2:24)。

 

家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねました。イエス様は「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われました(10-12節)。

 

離縁については、パウロは次のようにも書いています。「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」(一コリント7:15)。

近畿中会壮年部修養会報告

2018年9月24日(月)11:00~15:30に、大阪北教会の礼拝堂で、隔年に実施される近畿中会壮年部修養会が開催されました。出席者は、72名(内教職者20名)で、当教会からは、黒田浩史牧師他全4名が出席しました。

午前の部は、開会祈祷に引き続き、福岡城南教会の澤正幸牧師による講演がありました。演題は「信仰の継承における壮年部の役割」で、次のような講演内容(要旨)でした。

少子高齢化の中で、キリスト教のカトリック、プロテスタントのみならず仏教会や他の諸宗教界各分野で信仰の継承が深刻な課題となっている。

信仰の継承について、わたしたちの姿を映し出すみ言葉として申命記5:16「あなたの父母を敬え。~そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」、エフェソ書6:2-3「父と母を敬いなさい。~そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」がある。自らの子どもが、「両親のような信仰」を継承したいと願ってほしいものである。しかしながら、子どもや孫世代に継承しているとはいいがたい現実がある。どうやってこの子たちに信仰を継承したらいいのだろうか。

そのことを検討する前に確認しておきたいことがある。一つは、信仰の継承は神の恵みに他ならないことである。二つ目は、神様はわたしたちを選ばれるとき、わたしたちの子孫のみならず、わたしたちの父母や先祖をも選ばれるということである。第三は、神様はわたしたちを信仰者として選ばれるとき、わたしたちの子どもたちを信仰の継承者として選ばれているということである。

しかし、「信仰の継承」を困難にしているものの正体、危機の根源を明らかにしなければならない。

使徒言行録5:29には「人間に従うより神に従わなければなりません」とある。我が国における深刻な課題として、親の権威が否定されているといえる。親の権威が否定されると神の権威も否定される。すべての権威は神に仕えるために立てられたのである。神から授かった親の権威が否定された中で育った子どもが親になったとき、いったいどこに立って、いかなる親の権威をもって子どもを育てるのか。この世の権威に従うようになると、信仰の継承は途絶える。わたしたちは、子どもたちに信仰に立って神に従いなさいと教えてこなかったのではないか。今の時代は本当に親が子どもを愛している時代だろうか。何としても、親の信仰を継承してほしいと祈り求めてきただろうか。親の子どもへの愛不足に比例して、子どもの親に対する愛はやせ細っているのではないか。

それでは、「信仰の継承」を回復するためにはどうしたらよいのか。わたしたちキリスト者にとって、信仰が子どもたちに継承されること以上の喜びはない。そのためには、まず、礼拝が信仰の継承の場とならなければならない。マタイ18:20には「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」とある。礼拝に集まる二人または三人とは、何よりもわたしとわたしの子どもたちととらえたい。また、礼拝は兄弟姉妹の交わりの中で守られる。礼拝において、隣人や子どもや孫は欠くことができない存在と言える。次に、祈祷会である。祈祷会において礼拝をどう支えるかが問われている。祈祷会を通して聖霊の風が吹く教会でありたい。最後に主の食卓の交わりとしての聖餐式の大切さである。聖餐式は終末的出来事の前触れである。アウグスティヌスは聖餐式を「愛の絆」と表している。わたしたちは聖餐にあずかることによって神様の愛を伝えていくことこそ、信仰の継承につながるといえよう。

午後からは、高知旭教会青木謙執事による30代の立場からの講演があり、全体協議となりました。小児洗礼による信仰の継承問題、信仰告白問題、壮年部・青年部の位置づけ問題、結婚しない世代の信仰継承問題等、限られた時間ではありましたが、多岐にわたり意見が飛び交いました。天候にも恵まれ充実した壮年部修養会でした。

日曜学校夏期学校

2018年8月18日(土) 夏期学校

8月18日(土)、午前9時15分より、教会に於いて夏期学校を持ちました。猛暑が続くなかでしたが、朝から涼しい風が吹いてほっとする一日でした。
礼拝から始まり、校長先生より創世記1章24―31節を通して、「すべてのものを造られた神様」という題でお話を聞きました。今回は「手作りおもちゃを作ろう」という主旨のもと、小さい子供が多いので保護者にも手伝っていただき、紙コップを使ったジャンピングおもちゃ、色紙と画用紙で作る金魚鉢、折り紙やストロー等を利用した風車、また、太い竹と細い竹を組み合わせた竹水鉄砲などを作り、それぞれ保護者のご協力もあって、すてきな作品が出来上がりました。
間で“おやつタイム”をとり、スイカやゼリー、お菓子などでひとやすみした後、お庭に用意した小さなプールに水を入れて、自分達で作った竹水鉄砲で遊びました。旨く水が飛んだり、飛ばなかったりで一喜一憂しながら、花に水をかけたり、水浴びしたようにぬれたり、とても楽しそうでした。他にも校長先生手作りの竹ぼっくりや割り箸てっぽうなどもあって楽しい時を過ごすことが出来ました。最後に記念撮影をし、黒田牧師のお祈りで会を閉じました。
猛暑の夏なので午前中までとしましたが、新しい親子づれも来られて、レギュラーを含め、子供16名、大人16名(計32名)の参加者があり、恵まれた集会となりました。
お手伝いくださった教会員の方々、また、下準備にもご協力くださった保護者の方々にも感謝です。
教会のお庭に子供達の明るい声が響いたことに感謝し、今後の日曜学校の歩みに神さまの導きを祈りたい、と反省会で話し合いました。

2018年9月 人の内側の汚れ

「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7章20節)
牧師 黒田浩史

当時の宗教の指導者であるファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエス様のことを非難しました。彼らは、イエス様の弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエス様に尋ねました(5節)。
ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしませんでした。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんありました(3-4節参照)。

そこでイエス様は彼らに、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言われました(8節)。「人間の言い伝え」とは、聖書には記されていませんが、後の時代に付け加えられた掟のことで、上記のように昔から受け継いでファリサイ派の人々をはじめユダヤ人が固く守っている掟がたくさんありました。
これに対し「神の掟」は、神様が私たち人間に守るようにと教えておられる掟のことです。神様は旧約時代に民の指導者モーセを通して、数々の掟をお与えになりました。これらの掟を民に教える前にモーセは、「今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言いました(申命記4:1参照)。神様が与えられる掟を守るならば、神様が豊かな恵みを与えてくださるというのです。
これらの掟こそ大事ですから、イエス様は後の時代に付け加えられた掟は守らなくてもいいと仰せになったのです。食べ物に関する掟についても、守らなくていいと考えておられたと言われています(15節参照)。

そして、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と仰せになりました(20-23節)。
心の中の悪い思いを取り除き、良い思いが言葉や行いとなって外に出て来るようになりたいものです。

2018年8月 永遠の命の食べ物

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6章27節)
牧師 黒田浩史

イエス様は、五つのパンと二匹の魚を増やして五千人に食べ物を与えられました(1-15節)。その後、湖の向こう岸のカファルナウムへ行かれました(16-21節)。パンを食べた群衆は、イエス様を捜し求めてカファルナウムに来ました(24節)。

イエス様は群衆に「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と仰せになりました(26-27節)。
すると群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました(28節)。イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになりました(29節)。
「神がお遣わしになった者」とはイエス様のことですから、イエス様を信じることが、神の業であるという意味です。

イエス様を信じることは、心の中で信じるだけでなく、イエス様と共に歩むことでもあります。イエス様はこの後で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と仰せになりました(54節)。聖餐のパンとぶどう酒のことを意味しています。しかし、弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました(60節)。そして、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなりました(66節)。
彼らはイエス様を信じることができずに、イエス様から離れ去ったのですが、イエス様を信じるということは、イエス様と共に歩むことを意味しています。

イエス様は十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました(67節)。すると、弟子の一人であるペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言いました(68節)。
私たちもイエス様は永遠の命を与えてくださる方であると信じて、聖書の御言葉を聴き、聖餐のパンとぶどう酒にあずかり、イエス様と共に歩んで、永遠の命を生きる者とされましょう。