2月 「死の現実に勝利して」

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない。

このことを信じるか。」  (ヨハネ福音書11:17‐44)

 

人が死ぬということは、人間の世界ではどうしても説明のできないことです。そして、その死の最大の特徴は「断絶」です。

どんなに愛する人とも、死んでしまえばもう会うことができません。死は「断絶」です。生きながらにして死を経験するほどの辛いこと、それは決定的な人との断絶です。

つまり断絶を生む裏切りや敵意、憎しみや憎悪は死と同じです。ですから聖書は体の死だけを死とは考えていません。

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病気で既に死んだラザロに対して主イエスは「この病気は死んで終わるものではない。」と言い、また「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」(マタイ10:28) と言って、肉体の死のほかに魂の死、永遠の滅びのあることを明らかにしています。

さて、ではこのような人間の死を、主イエスはどの様に見ておられるのでしょうか。

まず「涙を流された」とあります。愛する者を失っていつまでも泣き続ける者に、奈落の底に吸い込まれていくような、ポッカリと心に穴が空いたような耐え難い孤独と恐怖の中にたたずむ者に、一体誰が一緒にいてくれるでしょうか。我が子ですら、仕事だ、子育てだと言ってなかなか一緒に居てはくれません。しかし、主イエスはそのようなあなたと一緒に居てくださるのです。それが「涙を流された」と言うことの意味です。

更に主イエスは「心に憤りを覚え、興奮して」と二度も語っています。これは人間の力ではどうすることもできない死の現実、私たちの心の底にある何とも理解し難い気持ちを、主イエスは一緒になって憤ってくださっていることなのです。

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 さて、すべてが死んで終わるとしたら、どんなに美しい、どんなに素晴らしいことも意味を失ってしまします。結局、生きる意味と支えがどこにもないことに気が付きます。しかしこれがわたしたちの現実です。このような現実に対して主イエスは涙を流し、そして憤られました。

しかし、泣いて憤っただけではありません。この死の現実を滅ぼし、私たちを死の現実の中から救ってくださったのです。この愛の勝利の力を信じるとき、深い人間の悲しみの中で泣き崩れながらも、次の第一歩を踏み出すことができるのです。