4月 「その名は一体何か」

 

「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。

彼らに何と答えるべきでしょうか。」

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」

と言われ、……

                   (出エジプト記 3:13-15)

 

神は人間の理解を越えた不思議な出来事を通して私たちに語りかけて下さいます。不思議な理解し難い現実に直面する時にこそ、心を開き、神に問いかけ、祈らなければなりません。

モーセは「わが民イスラエルの人々エジプトから連れ出すのだ」と神に命じられた時、神の召しが理解できず、不可能と思える壁にぶつかります。と言うのは、モーセはエジプトの宮廷に育った、イスラエルの人々とは何の面識もない「よそ者」です。そんな人間がイスラエルの人々の所へ行っても誰も従ってはきません。

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 そこでモーセは、自分が神から遣わされた者であることを証明できる確かな決め手を求めます。それが「その名は一体何か」と言う問いです。それは「あなたは誰か、どういう神か」と言う意味です。その答えが「わたしはある、わたしはあるという者だ」です。この言葉をどう理解するか、今日まで白熱する議論がなされてきました。直訳すると「私であるところの私である」“I am who I amとなります。私たちの頭では直ぐに理解できないのが聖書の言、神の御旨です。この「私である」というヘブル語は、有る、居る、成るという意味で、つまり「私は成る、私が成るように」となり、神が何であり、何になるかは神自身が決めるという、神の自由意志の宣言となっています。そしてそのことが、モーセのこれからの歩みとイスラエルの歴史とに密接に結びついていきます。

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 「あなたと共にいる」と言われた神が、モーセをイスラエルの人々の所に遣わし、エジプトを脱出させる歴史的展開へと導いて下さるのです。

 「その名」、神の名は、概念的に理解されるものではなく、歴史における神の行為として顕されて行きます。そこには無限の力と、歴史を支配される神のリアリティーがあります。

その歴史とは、エジプトを初めとする聖書の歴史から、私たちの生きる今日までの歴史、また、キリストの来臨の日までの歴史であって、「今おられ、かつておられ、やがて来られる」「初めであり、終わりである」神と共にある歴史です。そして、その歴史の歩みの中に神の名が明らかにされていきます。

巨大な力を持つエジプト王のもとへ、よそ者としか思われないイスラエルの人々の中へと、神は私たちを遣わそうとしています。誰が見ても不可能な中へ。しかし、不可能と思われる事柄の中にこそ、モーセの人生があり、私たちの人生があります。万軍の主、全能の神が昨日も、今日も、明日も共に歩まれるからです。