6月「幸せですか」

(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4:16-18)

藤 田 英 夫

 「幸せですか」とたずねられたら何と答えるでしょう。今さらそんなことを聞かれても答えに困るかもしれません。わたしたちは、自分が幸せかどうかを毎日考えながら生きているというわけではないようです。でも関心が無いわけではなく、むしろすべての人がこの世に生まれた以上は幸せになりたいと思っているのではないでしょうか。

 では、幸せとはどんなものでしょう。幸せの形は人それぞれだといわれます。確かにそうかもしれません。でも、それぞれの好みや趣味といったことでは終わらないもっと大切なもののことも、わたしたちは幸せと呼んでいるのではないでしょうか。言い換えるなら、これがあるから生きることができると言わせてくれるような拠り所のようなもののことです。何があればそんな幸せを得ることができるのでしょう。

 それを考えることは、人の命はなぜ尊いと言えるのかを考えることでもあります。前にこのことについて高校生たちと話し合ったことがあります。いろいろ意見が出た結果、最後にたどり着いたのは「どんな人でも何かができるし、何かの役に立てるから」ということでした。そこでもう一つ尋ねてみました。「では、何もできなくなったら、人は生きている意味がなくなるということですか。」それへの答えは出て来ませんでした。

 それについて聖書はこう教えてくれます。この世にある命の一つ一つが尊いのは、それを造り、いとおしんでくださるお方があるからだ。何かができる、役に立てるということは大切なことです。でも同時に、それだけがわたしたちの命の尊さを支えているものではないことも知っておかなければなりません。

 命が尊いのは、その命が存在することを大切に思う誰かがいてくれるからです。大切に覚えられ、愛されていることが、命の尊さを支えます。わたしたちの命は、そんなふうに、誰かとのつながりの中で支えられ、守られているものではないでしょうか。そして神は、誰よりも深くわたしたちを愛してくださるお方だと聖書は告げています。神はそのひとり子を与えるほど世を愛されたお方なのです。