8月「恵みのみ座」

 「だから、憐みを受け、恵みにあずかって時宜にかなった助けを

  いただくために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。

ヘブライ人への手紙 4:16

槌 本 和 子

 ここには慰めに満ちた神の言葉が語られています。神が与えてくださる賜物が3つ、すなわち、憐み、恵み、助けがあげられていますが、この3つは神の恵みの総称で、神の賜ものの豊かさを示しています。ところで、私たちの信仰生活はどんな生活でしょうか。私たちは家族、学校、職場、隣近所の人々の中で生きていますが、人々は私たちの生活ぶりを見てどんな評価をしているでしょうか。気になることです。しかし、私たちにとって人の目以上に大切なものがあります。4章13節に「・・・すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」とりあります。しかし私たちはこのことを重荷と考えずに恵みとして受けとめて、全生活を神に喜ばれるようにしていきたいと思います。なぜなら、神を忘れ、無視する生活ほど禍いなものはなく、神によしとされる生活ほど幸いなことはないからです。

さて15節によると「この大祭司(キリストのこと)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点においてわたしたちと同様に試練に遭われたのです。」とあるように、キリストはいつでもどこでもどんな時にも共にいて折にかなった生活に導いて下さるお方なのです。私たちはこの主イエス・キリストの心を心として生きるとき、人を愛し、苦楽を共にして生きる信仰者とsて行かされるのではないでしょうか。それは、神が人の姿をとって世にこられたのは、全てのことにおいて私たちと同様に試練に逢われて私たちの重荷を負われたお方だからです。それ故人が試練に泣くときも、十字架にかかって私たちの罪の身代わりとなり、贖いを成就して甦られた主を見上げるとき、主イエスは凡てを知ってその一つ一つに折に適った助けを与えて下さるのです。人間同志の交わりでも喜びや悲しみを共にする人があると、その喜びは倍に、その悲しみは半分になると言われています。ましてや神のみ子イエス・キリストの憐みをうけるなら、悲しみは消え、苦しみは無くなるに違いありません。それ故に大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。

最後に同じヘブライ人への手紙12章1~2節には、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスはご自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の王座の右にお座りになったのです。・・・」とあります。主イエス・キリスト自ら「すべて主にを負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイによる福音書 11:28)と言われたみ言葉とはそのことではないでしょうか。