2015年9月「高価な真珠の発見」

また、天国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

(マタイによる福音書13:45-46)

鈴 木 攻 平

このたとえは、すぐ前の隠された宝を発見した農夫のたとえとともに語られる。それによってそれぞれが言わんとするところが浮き彫りにされるからである。農夫は、畑で偶然に宝を発見したのに対して商人は長く探し求めてようやく発見した。真の救いを発見して救いに入れられる経過は人それぞれであることを教えている。主イエスは、二つに大別された。前者の例として、使徒パウロがキリスト者の迫害の最中に突然復活のキリストに出会って回心したことがある。後者は、アウグスティヌスの例である。本当の救いは何かを考え、哲学を学び、宗教(マニ教)の門をたたいた。しかし、彼はどうしても魂の平安を得ることはできなかった。それでも求め続け、見出したのは母モニカの信仰、キリスト教であった。

良い真珠を探している商人について、もう少し突っ込んで考えてみたい。この商人は、良い真珠のことが頭から離れない。自分の求めているものが何であるか、はっきりしている。この商人をわたしたちに当てはめれば、どういう人のことを言うのだろうか。人生とは何か、生きる目的は何かと考えながら生活している人である。わたしたちは、生きる目的を知って生きているだろうか。生きるために食べているのか、食べるために生きているのか分からないような人生を送っていないだろうか。

生きる目的はこの世の与えるありきたりのものであってはならない。この世のものに人生の目的を置いているとやがて目的を果たせなくなった自分を知って愕然とするにちがいない。趣味やボランティア活動に生きがいを見出している人は多い。しかし、やがてできなくなる時が来る。寝たきりになるかも知れない。そのような時、自分の生きている意味を何に見出すのだろうか。

聖書は信仰者について言っている。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:7-8)主イエス・キリストこそ、主イエス・キリストを知ることこそ、生きる目的であり、意味である。わたしたち罪人のために身代わりとなって十字架につき、肉をさき、血を流してわたしたちの罪と死を滅ぼし、永遠のいのちを与えてくださった。この愛にまさる愛は他にない。これこそ「良い真珠(複数形)」をも超える「高価な真珠一つ」である。

この商人は、「持ち物をすっかり売り払い、」高価な真珠一つを買った。これまでの人生の結晶をすべてこの高価な真珠一つのために使う。これまで生きてきたのは、この真珠を手に入れるためであったと納得したからである。宝を発見した農夫も同じことをする。