2015年10月「新しく開かれた命の道から、神に近づこう」

ヘブライ人への手紙10:19~25節

府中中河原伝道所牧師 大石周平

 

「兄弟たちよ」。わたしたちが礼拝に集まり、かくも親しく呼びかけられることは、決して自明ではなく、驚くべきことだ。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんとういう喜び」(詩133)!

礼拝の讃栄も、本来わたしたちが歌えるものではなかった。「聖なるかな」との御使いの歌を聞いたイザヤが真っ先に覚えたのは恐怖だったのだ(イザ6)。いったい、罪のこの世に生まれ、ささやかな義も愛も真も平和も貫けぬわたしたちが、神に堂々と近づくなど、どうしてできるだろう。こんなにも思いと価値観と願いが違い、世代も趣味も好みも異なる者たちがひとつに結ばれるなど、どうして望めるだろう。姉妹よ、兄弟よ! この声に応じるには、「はばかりのない」(口語訳)「大胆な確信」が必要なのだ。

聖書は、その大胆な確信が「イエスの血によって」「肉によって」わたしたちに与えられたと教える。神の御子が人間と同じ「血肉」をとり、「兄弟」としてすべての罪を負って血を流し、肉をさかれて死にたもうた。ここに、まことの大祭司による完全な執成し、罪の贖いの成就がある(2章)。これを信じ罪赦された者として、わたしたちは神に近づくことができるのだ、と。

主の肉が、神殿の垂れ幕と重ねられる。都の外、罪人の丘で主の肉が裂かれたとき、聖所の内外を分けた幕も裂けた。救いから最も遠い郊外の者を、聖所に招くため。最も貧しい者が「信頼しきって、真心から神に近づこう」と呼びあうためである!

わたしたちの礼拝堂は、聖餐卓に近づく誰もが、霊において主にまみえ、兄弟姉妹と交わる場である。聖餐共同体には「信仰の確信」(22節)、「信仰告白する希望」(23)、「愛と善行」(24)の実りが溢れる。なんという恵み、喜びだろう!

今や、神は言われる。「さあ、誰を遣わそうか」。主が赴かれた郊外に、伝道者の視野が広がる。「はい、わたしがここに」(イザヤ6)! 主に近づいた者は、今度は外へ出て苦しむ者に近づき、痛みを負う新しい生き方を始める。さぁ、姉妹よ、兄弟たちよ、信徒大会の終わりにも、同じ御言が新しい展望だとされた。これしかない。もう一度主の御元に、主と共なる道に歩み出そう!