2016年1月 = 今年度の標語=

「一人一人の賜物を生かして教会を建て上げよう」

「一人一人に“霊“の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」

               コリントの信徒への手紙一 12章 1-7節

西宮中央教会 牧師 藤田 浩喜

与えられた箇所には、教会という信仰者の群れがどのような群れなのかということが、記されています。「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1~3節)

◇ ◇ ◇

 ここで「霊的な賜物」という言葉のギリシャ語は「カリスマ」です。「恵みの賜物」と訳すこともできます。「カリスマ」と聞いてどうでしょう? キリスト者の中でも誤解する人があります。自分にカリスマが与えられているなどとは、とんでもないと思うのです。

◇ ◇ ◇

しかし、ここでパウロは教会に生きるキリスト者はすべてカリスマを与えられていると言います。しかもさまざまなカリスマです。その第一に与えられているのは、キリスト者すべてに共通のカリスマです。それは、「イエスは主である」と言えるようになっているということです。キリスト教会を造るすべての者が、イエスを主と呼びます。それはそのような信仰を、カリスマとして戴いているからです。どれほど互いに違っていても、イエスを主としてお迎えしている点では皆同じです。イエスを主としているということによってお互いに信頼しつつ、共に生きる基盤を与えられているのです。

◇ ◇ ◇

パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と、強調しています。「イエスは主である」という信仰に生きていなければ、教会は教会であることはできません。ペトロの信仰告白のように、このキリスト告白の上にだけ、私たちは教会を建て上げていくことができます。自分たちの教会が、「イエスは主である」という信仰に、いきいきと生かされているか。その信仰以外のものの上に教会を建てようとしていないか。牧師も信徒もそのような自己吟味を繰り返しつつ、主イエスをかしらとする教会を建て上げていくことが大切なのです。