2016年2月 「見失った一匹の羊」

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

(ルカによる福音書15:1-17)

                                                                              教師 鈴木 攻平

主イエスが、徴税人や罪人たちと食事を共にしていたとき、これを見ていたファリサイ派の人々や律法学者たちが、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不満を口にした。これに応えて、このたとえは語られた。 主イエスはご自分の働きがどういうものであるかを明らかにされたのである。

百匹の羊を持っている羊飼いがいた。当時としては、これくらいの羊を持っているのは、ごく普通の羊飼いであった。そのうちの一匹が、群れからいつの間にかはぐれてしまった。夕方囲いに入れるときに数えて分ったことであった。そこで羊飼いは、九十九匹を残して一匹を探した。

羊という動物は、まったく無防備な動物である。脚が早いわけでない。大きな耳を持っているわけでもない。特別に臭覚が優れているのでもない。従って非常に臆病な動物である。羊が、一番安全で安心できるのは、飼い主と共に、群れでいるときである。ということは、羊にとって一匹でいるときが一番危険であり、不安である。だから、他の九十九匹を群れとして野原に残し、一匹を探しに行ったことは九十九匹の羊に冷たくしたことを意味しない。

羊が一匹でいることが、どんなに危険であるかをよく知っている羊飼いは、見つけるまであらゆる犠牲を払って探しまわる。このような羊飼いの姿は、主イエスがこの世に誕生され、伝道して歩まれた姿を暗示している。ルカによる福音書15章には、三つのたとえが記されている。これは、三位一体の神の父、子、聖霊それぞれの働きに対応すると言われる。父なる神のお働きは放蕩息子の父親の愛に、鳴くことも訴えることもできない紛失した銀貨を探す女は聖霊に、そしてこの羊飼いのどんな犠牲を払っても発見するまでは探しまわる働きは、主イエスのみわざに対応する。見失われたわたしたち罪人を見つけ出すために、この世に誕生され、33年のご生涯においてわたしたちを発見し、救ってくださったのである。

羊飼いは、発見して、「喜んでその羊を担いだ」とある。これは、主イエスの十字架のみわざを意味している。主イエスは、わたしたちの一生涯の罪をすべて負って、あの十字架の死を遂げてくださったからである。預言者イザヤが語った主のお言葉「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」の成就である。

九十九匹の羊を野原に残して、見失った一匹を探す羊飼いは、残した九十九匹よりも発見された一匹の存在がうれしいと言っている。一見、これは、九十九匹を見捨てたように思うかも知れないがそうでない。数の多い方を喜ぶ羊飼いは、最後には必ず九十九匹をすべて見捨てることになることを教えている。九十九匹から、一匹がいなくなったら九十八匹を、さらに九十七匹を選ぶことになるからである。