2016年3月 「ひずみ(歪み)の中に生きる証人」

今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。

『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。

葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』

(マタイによる福音書11:16-19)

教師 槌 本 和 子

この主イエスのみ言葉は、投獄されていたバプテスマのヨハネの問いかけに答えて語られた説教の結びの言葉です。人間のよこしまが支配し、宗教的にも道徳的にも権威が地に落ち、正義が通らない時代の中で、ヨハネは「『来るべき方』はあなたですか。それともほかにだれかをまつべきでしょうか」と問い、主イエスを望み続けてよいかの確認を求めてきたのです。主イエスはヨハネの受けた苦しみを見ながら、神のみ言葉とみ栄を受け入れようとしない世は、まさに拒絶の時代です。

神の真理があるのに、「あるべきではない」と否定し、当然おこらねばならないことを、「あるはずがない」と言います。この人間のアマノジャクな性格は、最初の人間アダムの堕落以来、人間の心の奥深くにひそんでいる罪(原罪)から来るのであって、まことに悲しいことです。そうして見ると、今の時代もこれに酷似していないでしょうか。いつぞやテレビの知識人の討論会で、今の時代は「得体の知れない拒絶の時代である」と言っていましたが、その通りだと思います。価値の多様化により、人は何でも自分のやりたいようにやれる自由業を好み、人の意見や指示に対して共鳴せず、又何の反応も示さず、信念のない、まさに自己の殻に閉じこもって心を開こうとしない、心の渇いた時代と言えましょう。

そういう中で、主イエスは「知恵の正しいことはその働きが証明する」と言われました。バプテスマのヨハネは、「わたしのあとのに来る方こそ世の罪を取り除く神の子羊」であると、主イエスを指し示しながら救い主を待望する者として、その使命を全うしました。主イエスはこのヨハネを、預言者より勝る者として賞賛されましたが、「しかし神の国で最も小さい者も彼よりは大きい」と言われました。そして主は古き律法の時代は終わりを告げ、罪の赦しを与える喜びの福音をたずさえて「来るべき方」として働かれました。主イエスは、ヨハネのような禁欲生活の途をとらず、世人から嫌われ顧みられず非難された取税人や罪人の友と自由に交わられ、その人々のために尊い命を投げ出されたのです。主イエスは彼らを救うために罪人の側に立たれたのです。

これは私共に対する神のあわれみと知恵から出た尊い働きであります。この主イエス・キリストにあらわされた神の憐れみと知恵に心を開きうる人は幸いです。

神は今の時も十字架の福音が説かれ、開かれる教会に置いて、真理を明らかにし、そのみ業を押し進めておられるのです。この神のはかり知れない恵みを心から賛美する教会生活礼拝生活によって、主の証人としての歩みを終わりの日まで守り続け、感謝と喜びをもって生涯を全うしたいものです。