2016年4月 「見ないで信じる」

「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」

(ヨハネによる福音書20章23節)

牧師 黒 田 浩 史

弟子のトマスはイエス様の復活を信じられませんでした。その理由は簡単です。トマスはみんなと一緒にいなかったからです。信じる人たちが集うところに、復活のイエス様もおられます。信じる人の集まり(教会)に加わることにより、私たちはイエス様を信じることができるのです。

場面はイエス様の復活の日の夕方でした。トマスはこの時、みんなと一緒にいなかったのですが、八日の後(現代の言い方だと、次の日曜日)、今度はトマスもみんなと一緒にいたので、復活のイエス様にお会いし、信じることができました。復活されたイエス様は弟子たちに姿を現わされ、「あなたがたに平和があるように」と仰せになりました。ヘブル語の普通の挨拶である「シャローム」も「平和」という意味ですが、それ以上の意味が込められています。というのも、弟子たちはイエス様の十字架のとき皆逃げてしまったので、挫折感や自己嫌悪に苦しんでいたのです。そこへ現れたイエス様は、弟子たちの罪を赦し、弱さを受け止めてくださいました。

次にイエス様は、弟子たちに聖霊を吹きかけられました。聖霊降臨を思わせる場面です。実際には主の復活から50日目に地上に聖霊が降りましたが(使徒言行録2:1-13)、ここでは復活を信じた人が聖霊を受ける姿を表しています。

その聖霊の働きの一つは、罪を赦す人になることです。「だれの罪でも、あなたがたが赦さければ、赦されないまま残る」と主は言われました。「あの人は絶対に赦せない」という恨みや憎しみが、赦さない人(裁いている人)の心の中にいつまでも残るというのです。それはその人の心の中で増大し、心を蝕みます。他の人の罪を赦さないままにして、いつまでも苦しむのではなく、イエス様は私たちが人を赦し、恨みや憎しみから解放されることを望んでおられます。

復活のイエス様は弟子たちに手と脇腹をお見せになりました。そこには十字架の傷跡が残っていたことでしょう。癒された傷跡です。イエス様は御自分が傷を負っておられるからこそ、傷ついた私たちを癒してくださるのです。傷といっても、人々から侮辱され見せしめのようにして十字架刑を受けられたイエス様は、精神的な傷も大きかったと思われます。私たちの心も長い間の人との関りの中で、さまざまな形で傷ついており、傷が残っています。しかし、復活の主により罪を赦され、弱さを受け入れていただき、傷を癒していただきましょう。そして、癒された者として、他様の人の傷の痛みをも分かってあげられる人となり、傷をいたわり合うことのできる人になりたいものです。

互いに弱さを思いやり、傷をいたわり合っている私たちの姿を見て、人々は復活の主イエスに出会うことができるでしょう。互いに愛し合う共同体として、復活の主を証ししていきましょう。