2016年5月「心の平安」

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。」

(ヨハネによる福音書14章27節)

牧師 黒 田 浩 史

最後の晩餐でのイエス様のお言葉です。聖霊の降臨を予告されました。

ヨハネ福音書では、イエス様の復活の日の夕方、既に弟子たちに息を吹き掛けて「聖霊を受けなさい」と仰せになっていました(20:22)。聖霊は信じる一人一人の上に降っていて、聖霊の働きのおかげで復活のイエス様が信じる人といつも共におられることを強調しています。

十字架と復活は別々のものではなく、十字架の苦しみの中に既に復活の栄光が宿っています。イエス様の十字架の姿に倣って地上で様々な苦難を忍ぶ信仰者も、その苦しみの中に既に復活の栄光が与えられているのです。

イエス様は「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」と仰せになりました(28節)。これは世の終わりにおける主の再臨のことではなく、21世紀の現代に生きる私たち信仰者のところに、復活のイエス様も共におられることを意味しています。十字架に満ちた地上の歩みの中にも、復活の喜びがあり、私たちは復活の命を生きる者とされているのです。

「心を騒がせるな」(27節)と仰せになったイエス様ご自身が、十字架を前にして心を騒がせられました。「心を騒がせる」と訳されている語は、原語のギリシア語では「海」ないし「湖」から出来た語で、「湖の水面を波立たせる」というような言葉です。いろんな心配事や不安を前にして心を波立たせざるをえない私たちの姿です。しかし、イエス様ご自身が十字架に向かう前に心を波立たせて、その苦しみを体験されたからこそ、私たちの悩み苦しみをも分かってくださるのです。

イエス様は弟子たちに平和を約束されました(27節)。ギリシア語の「エイレーネー」は、「平和」とも「平安」とも訳せる言葉です。「世が与えるようにではない」と言い、その違いは、この世の平安は自分や家族、自分の属するグループだけの安全を確保するのに対し、イエス様は他者のために生きられた点です。自分だけ助かりたければ逃げることも出来た筈ですが、イエス様は私たちのために死に至るまで十字架の道を歩まれました。

主を信じる私たちも、主の教えに従って互いに愛し合い(13:34)、他者の罪を赦し(20:23)、自分のためだけでなく、他者のために生きることにより、復活の命を生き、復活の主を証ししていきたいものです。