2016年8月「忠実な僕」

「すべて多く与えられた者は、多く求められる。」

(ルカによる福音書12章48節より)

牧師 黒 田 浩 史

この世におけるキリスト者の生き方が問われています。

「目を覚ましている僕」ということで、終末における主イエス様の再臨に備え、与えられた務めに忠実であるようにと言われています。婚宴に出掛けた主人を待つ僕の譬えですが、主人は夜遅くなっても必ず帰って来ますから、僕は目覚めて待っていなくてはなりません。

この御言葉は、私たちにとって希望にも警告にもなりえます。ちゃんと務めを果たしていた僕は主人に褒めていただけますが、言いつけ通りにしなかった僕は叱られ、鞭で打たれるとあります(46節)。

この御言葉が希望になる人とは、例えば、今この世の生活において困難や苦しみを忍んでいる人です。今は辛いけれど、信仰を持って主イエス様の教えに少しでも従って生きるなら、再臨の主イエス様は私たちをあらゆる悩み苦しみから解き放ち、永遠の命へ迎え入れてくださるでしょう。

反対にこの御言葉が警告になる人とは、主人すなわち神様の意向が全く分かっていない人のことです。人生の意義や生きる意味を見失ってしまっている人もそうです。それは主人の言いつけを守らずに、下男や女中を殴ったり酔ったりしている僕の姿ですが(45節)、神様からいただいた恵みや賜物を自分勝手に使い、自分中心に生きている人です。

この譬えは、「多く与えられた者は多く求められる」(48節)とあるように、私たちキリスト者に対して語られています。ですから、信仰に入ったにもかかわらず、その道から逸れてしまっていないかどうか、自分自身を吟味してみる必要があります。最初の頃の新鮮な気持ちを失い、何となく惰性で信仰生活を続けてはいないでしょうか。

この御言葉が自分にとって希望になっているか、それとも警告に感じられるかにより、自分の魂の状態を知ることができるでしょう。

それでは、主人の言いつけ、すなわち神様の意向に従って生きるためには、私たちはどうしたらよいのでしょうか。そのためのヒントが直前の箇所(13-34節)に書いてあります。

特に最後の方で「富を天に積みなさい」(33節)とあり、それと反対の姿が「愚かな金持ち」です(13-21節)。この金持ちは、自分の富をどうやって保管し、自分をどうやって楽しませるかしか考えていませんでした。

しかし、天に富を積むとは、神様を喜ばせて生きることです。この世のいろんなことに奪われていた心を神様の方へと向けるのです。

ですから、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(34節)と主が仰せになっているように、お金の使い道を見れば、そこにその人の心もあることが分かります。人は自分の関心のあるところにお金を使うものです。それは確かに事実であり、教会に献金をするとき、私たちの心は神様のところにあります。

お金のことだけでなく、結局、心をどこに向けるかという問題です。何にどれだけ時間を使うか、ということでもあります。イエス様の譬えの中で、僕が食べ物の分配を任されていたように(42節)、私たちにも神様から委ねられた人々がそれぞれいます。日頃接する人たちを気遣い、思いやりの心で接するとき、私たちの心は神様のところにあるのです。

再臨のとき、主イエスから褒めていただけるような生き方を目指しましょう。