2016年9月「人生の塔」

 「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。」

(ルカによる福音書14章28節)

牧師 黒 田 浩 史

クリスチャンの生き方についての御言葉です。イエス様のもとに集まってきた大勢の群衆の中には、イエス様がこれから王様になって国を支配するかのように勘違いしている人たちがいました。当時の人々が期待していた「救い主」は、武力でユダヤをローマ帝国から独立させ、王様のように国を統治するようなイメージが強かったのです。
そういう勘違いを察してのことでしょうか、これまでも「愚かな金持ちの譬え」で、地上の富で幸せを求めるのではなく、「神様の前に豊かになりなさい」と教えられましたし(12:13-21)、「謙遜の教え」では、上席に座って人々からの称賛を求めたりはしないで、「私はずっと末席のままでもいいです」というへりくだった心を持つようにと教えられました(14:7-14)。

そしてさらに、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命よりも、イエス様の方を愛しなさい」と仰せになります。これは一種の身内主義への反対です。むしろ、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい」と言われ、神様からの恵みや賜物は、身内や仲間だけで享受するのではなく、多くの人たちと分かち合うようにと教えられました(14:13、21参照)。

しかし、この教えは世間一般の価値観とかなり違いますので、イエス様の弟子になるには、相当の心構えが必要であるとして、二つの譬えを語られました。

一つは、「塔を建てる人の譬え」で、手持ちの資金の範囲で工事が完成できるように、建てる前に腰を据えてよく考えることが大切だという教えです。直接は塔の規模についての話ですが、私たちの場合には、どういう「人生の塔」を建てたいのか、よく考えて人生を歩むようにとの教えです。
富で幸せを得る人生にしたいのか、それとも人々と神様からの恵みを分かち合うことで幸せになりたいのか、よく考えるようにということです。

二つ目は、「戦争を仕掛けられた王様の譬え」です。こちらは1万の兵しかないのに、2万の兵を持つ王が攻めて来ました。そのまま戦うのではなく、和平条約を結ぶ手があるといいます。これは、勝つか負けるかのように「二つに一つ」という状況から、「第3の選択」として、別の道があるのではないか、という教えです。
謙遜の教えで言うなら、上席に座るか末席に座るかというように、この世の物差しで人間の価値を図る見方とは全く別の道、イエス様のようにへりくだる人こそ真の人間であるという見方もありうるというのです。

事実、初期のキリスト教が広がったギリシアの文化圏では、謙遜という言葉も概念も存在せず、自信たっぷりにゆったり構えている人が尊敬されていました。しかし、イエス様の教えに従って謙遜な振る舞いや生き方を実践したクリスチャンたちが、謙遜という一種の新しい徳目を作り出し、これが広まっていったのです。
謙遜という言葉も、新約聖書が生み出した新しい単語でした。文字通りは「低い心」という意味ですが、キリスト教が広まる以前は、「低い」という語には「価値が低い」、「卑しい」という意味しかなかったのです。

イエス様と出会った私たちも、価値観を転換させられて、末席に座って人々と神様からの恵みを分かち合うことこそ喜びと感じられるようになりました。この気持ちを忘れることなく、日々の生活の中で少しでも実践していきたいものです。