2016年10月「種一粒の信仰」

 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。」

(ルカによる福音書17章6節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の時代の人々にとって信仰とは、神様が存在すると信じることではなく、神の存在は大前提でした。信仰とは、その神様の力が確かに自分のところにまで及び、事故や病気から守ってくれたり、困難な問題を解決してくれたりすると信じることでした。
使徒たち(弟子たち)がイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたのは、そこまでの信仰はないので、「もっと大きな強い信仰を与えてください」と頼んだということです(5節)。信仰が弱いために、ちょっとしたことで不安になったり、心がかき乱されそうになったりするのです。

しかし、イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば、桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くだろう」と仰せになりました(6節)。
パレスチナ地方のからし種は、日本の唐辛子と違い、粉のように小さな種だそうです。ほんの僅かで小さな信仰でも、本物の信仰ならば、絶大な効力を発揮するという意味です。他の福音書では「山をも動かす」とも言われていますし(マタイ17:20参照)、桑の木が海の塩水の中で育つことは普通はありえないことですが、信仰があればそれも可能だというのです。

ここでの信仰とは、難しい問題があっても、単に不安が無くなるとか、心が平安になれるとかだけでなく、本物の信仰があれば、実際に問題が解決するというのです。
弟子たちは、現実にいろんな問題を抱えていて、それらが解決することを切に求めて、イエス様に「信仰を増してください」と頼んだのでしょう。立場が弱い人、貧しい人など、人間的な力の無い人こそ、信仰が必要です。

これと対照的なのが、イエス様のことをあざ笑った「金に執着するファリサイ派の人々」です(16:14)。お金があれば、この世の多くの問題は解決しますから、神様の力に頼る必要はありません。それゆえ、信仰も必要ない人たちです。
ここでの「お金の力」は、お金に限らず、あらゆる人間的な力を含めて考えてよいでしょう。人間の努力にしても、健康や才能に恵まれている人は、努力次第でかなりのことが可能です。しかし、人間の力ではどうしようもなくなったとき、私たちは神様の力を頼って信仰を求め始めます。

努力できることも、神様の力のおかげです。物事がうまく行かなくて落ち込んでいるとき、すべてを諦めたくなります。そんなときにこそ、「信仰を増してください」と願うことにより、神様の力が流れ込んできて、前向きな考えや希望を与えていただけるのです。

そのような大きな信仰を持つための方法として、イエス様は謙遜に生きることを教えられました。神様から各自に与えられた務めを果たしても、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」という態度です(10節)。決して自慢せず、人からの評価や称賛を求めない謙遜さです。
これはイエス様のご生涯そのものでもありました。イエス様は神としての力を、自分の満足のためには用いず、病気の癒しや奇跡など、他者のために使われました。私たちも、信仰によって与えられる神様の力を、他者のために愛の業として用いるのです。

毎日の生活の中では、心がかき乱されるような出来事や難しい問題が次々と起こってきますが、信仰によって平安な心が与えられるよう、そして実際に問題が解決に導かれるよう、私たちも「からし種一粒ほどの信仰」を切に願い求めたいものです。