2017年2月「地の塩、世の光」

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。 」 

(マタイによる福音書5章13節)

牧師 黒 田 浩 史

神様は私たち人間を、ご自身の姿に似せて、尊いものとしてお造りになりました(創世記1:26-27参照)。
その姿のことをイエス様は、「あなたがたは地の塩である」と仰せになりました(13節)。
昔の塩は、天然のものですから、非常に貴重でした。しかし、「その塩気を失わないようにしなさい」と仰せになります。
当時の塩は、精製技術が未発達であったため、しけると純度が低くなることがあったそうです。

しかし、いくら塩が貴重であるといっても、塩だけ食べる人はいません。肉や魚などの他の食材に混ぜ合わせて、味付けをします。
塩に例えられている私たち人間も、同じです。私という人間は、他者のために生きてはじめて意味があるのです。もし、自分だけのために生きるなら、生きている意味はありません。「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる」でしょう。

人の役に立ってはじめて生きる意味がある、これはクリスチャンでなくても、多くの人に共通の価値観でもあります。
ところが外国では、40代くらいまでに、一生遊んで暮らせるほどのお金を稼ぎ、お金が貯まったら仕事を辞めて、あとは好きなことをして生きるのを理想とする人が多い、と聞いたことがあります。仕事は単に生活の手段にすぎない、という考えです。
しかし、社会や人のために生きるのを止めて、もっぱら自分のためだけに生きる、これこそイエス様の仰せになる「塩気を失った塩」ではないでしょうか。
キリスト教には、職業は神様からの召しである、という考えがあります。主婦のように、家族のために働く場合も含まれます。神様から与えられた務めを果たし、他者のために生きること、これこそ人間らしく尊い生き方なのです。

塩は、味付けをするだけでなく、半分腐敗した肉や魚類を再び食べられるようにする働きもあります。ここでの腐敗は、この世を意味しています。もちろん、私たち自身もその一部です。
罪にまみれて半分腐っているような私たちでも、他者のために生きている誰かのおかげで生きながらえ、また逆に、この私が半分腐った誰かを助けてもいるのです。互いに支え合う人間の姿です。

イエス様はまた、「あなたがたは世の光である」と仰せになりました。光は、イエス様ご自身を意味し、愛、憐み、赦し、自己犠牲なども表しています。これらを少しでも周囲の人に届くようにするのです。

私たち人間はもともと神様の姿に似せて造られましたから、自分の中に既に光が宿っています。しかし罪のせいで、この尊い姿が歪んでしまいました。
それゆえ、聖書の御言葉を通して、人間本来の姿を取り戻す必要があります。イエス様の十字架によって罪を赦され、その復活にもあやかって、神の似姿を回復していくのです。