2017年3月「荒れ野の誘惑」

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

(マタイによる福音書4章4節)

                       牧師 黒 田 浩 史

3月1日(水)からレント(四旬節)に入りました。イースター(復活節)に洗礼を受ける人の準備のための40日間の季節として発達したものです。既に洗礼を受けた人にとっても、洗礼の恵みを思い起こし、これまでの歩みを振り返ったり、神様の恵みに心を向けたりして、新しく生まれ変わるための季節です。

イエス様は、洗礼を受けられてから、聖霊によって荒れ野に導かれ、40日間、昼も夜も断食した後、悪魔による誘惑を受けられました。荒れ野は、何もないところなので、神様から私たちを引き離そうとする悪魔の企みが、見えやすいところです。豊かなモノや日々の煩いに囲まれていると、善悪の区別もつきにくく、悪魔の働きも見えにくいのです。これにもとづいて、レント(四旬節)の40日間は、贅沢を退けて生活をシンプルにし、自分が悪魔の誘惑に唆されていないか否かを確かめるという伝統が生まれました。

悪魔はイエス様に三つの誘惑を行いました。一つ目は、「石をパンに変えたらどうだ」という誘惑です。イエス様は40日間、何も食べていないので、おなかが空いていました。これは、物質的なものによって心を満たしたくなる誘惑です。現代の日本に住む多くの人たちは、これほどモノが豊かなのに、さらにモノが欲しいと思っています。

神様の愛で心が満たされていない人は、モノで心を満たそうとするのです。多くの人は物質には困っておらず、愛情に飢えているのです。その心を本当に満たしてくれるのは、イエス様の洗礼の時に聞こえた、「これはわたしの愛する子」という神様の声です(マタイ3:17)。欠点だらけの私たちを、無条件で受け入れ、愛してくださっている神様の愛です。この愛が感じられない人は、いくらモノがたくさんあっても、心は飢え渇いたままなのです。

二つ目の誘惑は、「高いところから飛び降りてみよ」というものでした。普通の人ができない芸当を行って、人々からの賞賛を求めようとする誘惑です。絶えず人の評価を気にして生きている私たちが陥りやすい誘惑です。人から褒められたり、高く評価されるのは気持ちのいいものだからです。これも第1の誘惑と同じで、神様の愛に満たされていない人は、結局は人からの評価によって心を満たす以外にないのです。しかし、神様によって無条件に受け入れられていれば、人からの評価は気にする必要がなくなります。

三つ目の誘惑は、「世界のすべての国々と繁栄を与えよう」というものでした。王様になりたいという誘惑です。世界を支配する王様にまでなりたいと願う人は少ないでしょうが、自分の力の及びそうな小さな範囲で王様になることを欲している人は多いです。家庭や職場や教会などでです。表面上は謙遜な態度を取っている柔和な人でも、本心を隠していることがあります。陰では人の悪口を言っていたり、人とぶつかると本心が出て来てきたりするのです。心の底から謙遜になるのは難しいものです。これも先の二つの誘惑と同じで、神様の愛に満たされていない人は、結局は自分で自分を膨らませる以外にないのです。しかし、「これはわたしの愛する子」という神様の愛が感じられれば、弱くて不完全な自分のままで人に接することができます。

以上のように、悪魔の誘惑と闘うためには、神様の愛に満たされる必要があります。この季節、これまでにいただいた神様の恵みを一つ一つ思い起こし、心を神様の愛で満たすことによって、悪魔の誘惑に打ち克ちましょう。