2017年4月「復活を信じる」

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

                                                                   (ヨハネによる福音書11章25節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様と出会って信じたマルタという名の女性の話です。兄弟のラザロが病気で亡くなりました。以前からイエス様と親しかったマルタは、その前に人をやって、ラザロの病気のことをイエス様に伝えました。しかし、イエス様はすぐに駆け付けたりはされず、二日間同じ場所に滞在され、その後でラザロの家に行かれました。

すぐに行かれなかった理由を、「神の栄光のためである」と仰せになりました(4節)。これは、人々がイエス様のことを信じるようになるためだという意味でした。その通りになりました。イエス様は死んだラザロを生き返らせ、これを目撃した多くの人たちは、イエス様のことを信じたのです(45節)。

けれども、イエス様に信頼していたマルタは、ラザロが生き返る前に、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とのイエス様のお言葉を信じました(27節)。マルタは、たとえどれほど悲しい出来事が起こっても、信じる人に対して神様は必ず良い方へ導いてくださることを信じたのです。

これは私たちにとっても、信仰の大前提のようなものです。神様が私たちを必ず良い方向へ導き、これまで以上に豊かな恵みを注いでくださると信じる信仰です。どんなに辛く悲しい出来事が起きようとも、神様の絶対的な恵みに信頼する信仰です。

マルタが「信じます」と答えたとき、ラザロが亡くなって四日も経っていました。人間の常識では、もはや息を吹き返すことはありえません。

けれども、人はどん底まで落ちたときに、はじめて神様に頼ろうとするものです。落ちるところまで落ちたなら、僅か1センチでも2センチでもいいから、上へ這い上がろうとします。上から下へ落ちて、今度は下から上へ這い上がる。これは一般的な言い方です。

聖書は「過ぎ越す」という言葉を使います。死を過ぎ越して(通り過ぎて)、復活の命に至るのです。その意味で、死は一時的な通過点にすぎません。一時的とはいっても、イエス様の十字架は大変苦しいものでした。「過ぎ越し」は、旧約の言葉で「パスハ」と言います。ヨーロッパの教会では、これをそのまま受け継いで、復活祭のことを「パスクア」、「パック」などと言います(ただし、英語とドイツ語は全く別の言葉を使います)。ですから、復活は「過ぎ越し」という意味なのです。苦しみや心の傷を過ぎ越して、未来に向かって歩み、復活のまことの喜びに到達するのです。

キリスト教の時間の概念は、始めがあり終わりがある、というものです。同じことの繰り返しはありません。終末における救いの完成に向かって生きているのです。今年のイースター(復活祭)も、イエス様の十字架の姿に結び合わされ、苦しいことや困難をまた一つ過ぎ越して、復活の恵みにあずかりましょう。