2017年7月「自分の十字架」

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

(マタイによる福音書10章39節)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の十字架と復活の予告のようなお言葉です。本格的な予告は、この後に出てきます(マタイ16:21-28)。

こうした予告をされた理由は、弟子たちの中には、イエス様が地上の王様になることを期待してた人もいたからです。そうすれば、自分にもお金や権力が与えられると思い、いわゆる現世ご利益を求めていたのです。

そこでイエス様は、自分の家族よりもイエス様のほうを愛しなさい、と仰せになります。ここでの「愛する」は、大事にするという意味です。というのも、当時の社会は、警察などもないので、家族や親族を頼って生きるしかありませんでした。現代でも中東などでは、警察よりも親族の方が頼りになるそうです。家族ないし親族を大事にすることは、すなわち自分を大事にし、自分の財産や利権を守ることを意味していました。

けれども、自分だけを大事にしようとする人は、結局は自分の命をも失ってしまう、と仰せになります。なぜなら、イエス様のように他者のために生きるときはじめて、私たちは本当に自分の命を得ることになるからです。その命は、この世での命というより、地上の生涯が終わってから、いわゆる天国における命を意味しています。というのも、聖書では、イエス様を信じて労苦を耐え忍んだ人に対して、「天には大きな報いがある」と約束されているからです(マタイ5:12)。

と同時に、イエス様は地上においても報いを約束されました。全てを捨ててイエス様に従って来た弟子たちに対し、天国において永遠の命を受けるだけでなく、「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け」ると仰せになりました(マルコ10:30)。

「百倍」とは、桁が違うという意味が込められています。私たち人間の想像や予想を遥かに超えて素晴らしい恵みを、神様は与えてくださるのです。そして、この世の生涯が終わってからは「永遠」ですから、更に桁の違う、ないし次元の違う恵みをいただけるということでしょう。

イエス様の時代は、ユダヤの国はローマという外国に占領されていました。ローマによる傀儡政権であるヘロデ王などもいましたが、政変が続き、弱くて無力な一般の人々は、社会の急激な変化に翻弄されていました。自分の願いなど何一つ実現しない時代でした。しかし、その中でイエス様は十字架の道を歩まれ、人々のため、すなわち私たちのために自分の命をささげてくださいました。

信じる私たちも、自分の十字架を背負って従うよう招かれています。十字架というと大げさに聞こえますが、他者のために自分にできる小さなことを行うのです。ちょっと笑顔で挨拶するとか、この国や地域社会に住む人たちの安全を祈るとか、できることはいろいろあります。この世では百倍、そして後の世では永遠の命が与えられる約束を信じて、イエス様の姿に倣って歩みましょう。