2017年8月「パンと魚の奇跡」

「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」

(マタイによる福音書14章19節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様が五つのパンと二匹の魚を増やす奇跡を行われ、大勢の人々が食べて満腹した場面です。「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)という動作が特徴的です。これは、後に聖餐を制定されたときと同じ動作です(マタイ26:26参照)。このことから、この場面は聖餐とも深い関係があります。

聖餐は、現代の教会では礼拝の中の儀式の一部として、僅かのパンだけ食べ、僅かのぶどう酒だけ飲んでいます。今日の場面は本物の食事ですが、聖餐の本質を良く表しています。すなわち、全くの恵みとして与えられているということです。お腹の空いた人が食べて満腹すれば、恵みの実感もとても大きかったことでしょう。

聖餐のパンとぶどう酒を通して、イエス様ご自身が私たちの中に入って来てくださいます。その恵みは、本物の食事の場合と同じように体で感じ、感謝の気持ちに満たされます。

食べ物は、動物にしろ植物にしろ神様が造られた命ですから、これらを食べる時、私たちの体の中に神様の命が入ってきます。同じように、聖餐のパンを食べぶどう酒を飲む時、私たちの心と体の中にイエス様の約束された永遠の命が入ってくるのです。地上の朽ちる命と永遠の命とでは、質が違いますが、同じく神様に由来する命です。私たちは食事の時に神様の命をいただき、御言葉と聖餐を通して永遠の命をいただいているのです。御言葉と聖餐とは一体のものです。

「命」という語は、聖書の原語では、英語のlifeなどもそうですが、「人生」や「生涯」をも意味する語です。御言葉と聖餐を通してイエス様の命が私たちの中に入って来ます。それゆえ、これにあずかる人の生き方は、イエス様の生き方に似てくるのです。「仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」と仰せになるイエス様の生き方です(マタイ20:28参照)。

イエス様の十字架と復活を信じる私たちは、ますます熱心に御言葉に耳を傾け、頻繁に聖餐にあずかり、少しでもそのお姿に近づいていきたいものです。