2017年9月「死を越えて」

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

(マタイによる福音書16章25節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様がご自分の十字架と復活の予告をされた場面です。

弟子のペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました(22節)。後に教会の指導者となったペトロですが、まだ十字架と復活のことは分かっていなかったのです。当時は多くの人々が、メシア(救い主)の到来を期待していました。この時代のメシアのイメージは、政治的な指導者としてローマからユダヤを解放し、独立国家を築いてくれるような人物でした。

そこでイエス様は、私たちも王様のようになって全世界を手に入れたいのか、それともイエス様に倣って真の命を得たいのかの選択を迫られました(25-26節参照)。全世界まで欲しいと思う人は稀としても、自分の小さな世界の中で自分の思い通りにしたいと願う人は多いです。けれども、イエス様を信じてこの方に従うことは、その姿に倣い、十字架の道を歩むことです。イエス様は私たちに対しても、どちらを選ぶか問うておられるのです。「私は一体何を求めて教会へやって来たのだろう」と自分自身に問うてみる必要があります。世間的な成功などではなく、やはりイエス様に倣って愛や赦しに生きる人間になりたいと願って信仰に入ったのではないでしょうか。

そのような私たちに対してイエス様は、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになります(24節)。「自分の十字架」とは、文字通り十字架の上で殺されることというより、精神的な苦痛を忍ぶという意味もあります。十字架刑は、肉体的な苦痛と同時に、精神的な苦痛も相当激しかったと言われています。大勢の人たちが見ている前で、侮辱されつつ、苦しみながら死んでいくからです。

それゆえ、イエス様に倣う際の精神的な苦痛とは、屈辱を忍ぶこと、へりくだって頭を下げること、嘘の悪口に耐えることなどです。この世では何の見返りもなく、ただ辛いだけのように見えるかもしれませんが、イエス様の姿と同じような姿になるとき、真の命を生きていることになるのです。特に、人をかばうためなど、他者のためにこうした苦痛を忍ぶならば、まさにイエス様と同じ姿になっています。

「私は人から馬鹿にされてもいいです。イエス様と同じ姿になりたくて信仰に入ったのですから」と言えるようになりたいものです。