2018年2月「心身の癒し」

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
(マルコによる福音書1章31節)

牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の方の場面です。
4人の漁師たちが、イエス様と出会って弟子になりました。そのうちの一人、ペトロの家での出来事です。
ペトロのしゅうとめが、熱を出して寝ていました。そこへイエス様がやって来られ、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。

ここでの病気は、人間の外からやって来てその人を苦しめる存在として登場しています。しかしイエス様は、そうした悪の力を追い出し、人間本来の姿を回復してくださいました。
その姿は、一同をもてなした姿、すなわち人に仕える姿です。「もてなす」と訳されている語の原語は、「食事の席で給仕する」という意味の語です。イエス様ご自身も、弟子たちの足を洗いましたが、これは元来は召使や奴隷のする仕事でした(ヨハネ13:1-11参照)。
「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」とも仰せになっていました(マルコ10:45参照)。

これは、愛の業でもあります。見返りを求めない愛であり、見返りを与えてくれない人に対する愛の業です。それは、一方向的な愛です。
私たちは、互いに心を通い合わせることのできる愛を求めがちですが、それは見返りのある愛でもあります。しかし、イエス様の愛は、見返りがあっても無くても行う愛でした。

最初にイエス様の弟子になった4人は、仕事道具や父親をその場に残して、イエス様に従いました(マルコ1:16-20)。物を捨てるだけでなく、執着を捨ててイエス様に従ったのです。
見返りを求める気持ちも、一つの執着です。「この人に好かれたい」というような思いです。
しかし、見返りを与えてくれない人への愛は、「この人から大事に思われても別に嬉しいとは思わない」という人を大事にしたり、思いやる愛です。

別の箇所でイエス様は、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と仰せになりました。この人たちは、お返しができない人たちだからだというのです。お返し、すなわち見返りを与えてくれない人に対する愛の業を勧められたのです(ルカ14:12-14)。
イエス様を信じ、イエス様に従う私たちも、人に対する執着を捨てて、見返りを求めない愛を実践していきましょう。