信仰とは何であるか

秋の特別礼拝説教

                                                                 高槻教会牧師 持 田 克 己

『信仰の本質と動態』という本があります。著名な神学者パウロ・ティリッヒの書『DYNAMICS OF FAITH』の翻訳です。わたしは以前からこの本に書かれていることは信仰を考える上で非常に有益なものと考えていました。そこで、この本の内容を紹介しながら、信仰について述べてみたいと思います。

まず、彼は「『信仰』という語ほど、誤解と曲解と怪しげな定義をされている語は他にないだろう」と述べて、残念なこととしています。「信仰」は英語ではfaith,ドイツ語ではGlaube(ティリッヒはドイツ人です)と言われますが、その言葉は正しく理解されていないと述べています。英語やドイツ語はともかく、日本語で「信仰」という場合でも、迷信や、非科学的なもののように考えられることがよくあります。日本では「イワシの頭も信心から」という言葉もあります。そのような言葉さえあるのですから、彼は「本書は『信仰』という言葉を曲解と悪評から救おうとする一つの試みである」とさえ言っています。

さて、彼が本書で述べるのは聖書の本来的な信仰、わたしたちの信仰の在り方です。まず、「究極的な関わりとしての信仰」について述べます。私たち人間は他の動物と同様に衣食住を必要とするものですが、同時に究極的な関心を持つものです。そして、その関心は信仰によって神と関わるものです。旧・新約聖書によれば、人が究極的な関わりを持つのは神です。「あなたは心をつくし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)とありますが、ティリッヒはこの言葉こそ神への究極的な関心を明らかにするものとしています。信仰とはわたしたちにとって最も究極的な関心事なのです。

次に、彼が述べるのは、「人間の中心的な活動としての信仰」で、「究極的な関わりとしての信仰は、全人格の活動である」と述べています。全人格とは、知的・理性的なもの、意志・信じ行動する決断、情・喜びや悲しみ感謝など、その全てを総合したもののことです。すなわち、信仰とはわれわれの知性(理性)も、意志(決断)、感情(喜び悲しみ)、などの全ての人格を懸けて関わるべきものです。故に、彼は信仰を人間の中心的な活動、としています。このようなことを聞く時、わたしたちの社会で如何に「信仰」が曲解されているかがよく分かります。信仰は理性だけで関わるものではなく、意志だけで関わるのでもなく、まして感情だけで関わるのでもありません。それらを総合した全人格で関わるものです。その一つだけと集中的に関わろうとするなら、信仰の本質から外れてしまいます。信仰とは人間の全体を以て関わる事柄ですから、最も人格的行為なのです。故に彼は、信仰を人間の中心的な活動で最も人格的な行為とします。彼はさらに、信仰は聖なるものとの関わりである、としています。信仰は聖なる神との交わりであって、邪悪なものとの出会いではありません。人は道徳的に生きようとしますが、信仰こそ聖なるものとの出会い、交わりです。

最後にまとめとして: 信仰とは何であるかについて、ティリッヒの『信仰の本質と動態』を引用しながら、今まで語られたことを復習しますと、①「信仰」という言葉は非常に、誤解され、曲解されていること、②私たちの信仰は主キリスト・イエスによって教えられた神への究極的関心事であること、③信仰とは人間の全体、全人格を以て関わるべきものであること、すなわち「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」関わるべきものであり、ゆえに最も人格的な行為であること、④信仰とは私たちの活動の中心的行為であること、⑤信仰とは聖なるもの(聖なる神)との出会いであることです。聖書を通してわたしたちに与えられているのはそのような信仰であります。