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クリスマス祝会

12月22日(日)クリスマス礼拝、聖餐式、集合写真撮影の後、2019年度のクリスマス祝会を開催しました。出席は男性12名(内子供3名)女性33名(内子供3名)計45名。司会は岩越長老、奏楽は鮫島執事。

讃美歌108番「いざうたえ」を皆で賛美し、新約聖書「ルカによる福音書」2:1~14を岩越長老が朗読、祈祷の後、開会となりました。

有志の方の手作りクリスマスケーキ・サンドウィッチ・お菓子等のランチを食しながら会は進みます。

日曜学校生徒の女の子2名は小室長老伴奏で歌を、男の子はトランプマジックでワンマンショー。

何時もお世話になっている牧師夫人と奏楽者の方々へ感謝のプレゼントが贈られました。

I兄が「記憶に残る海外のクリスマス」と題して、長い海外生活で通訳・記者として活躍された時代の、興味深いお話をしてくださいました。

原田長老のマンドリン演奏。T姉のピアノ演奏。長村執事・中村執事の二重唱。大鞆姉のゴスペル独唱。美しく聖らかな音楽が続きます。青年会恒例のハンドベル。T姉伴奏で婦人会の讃美歌コーラス。厳かにイエスさまの誕生を祝しました。

そして、I姉の閉会祈祷で幕となりました。皆さまは楽しい一時を過ごし家路に付かれました。

日曜学校クリスマス会

好天に恵まれて、令和元年12月21日(土)13時より、子供25名、大人26名合計51名の参加を得て、日曜学校のクリスマス会を持ちました。

礼拝堂において、原田校長先生の「救い主はお生まれになった」というお話を聞いて礼拝を守りました。続いて、小室先生による「のぼさんのクリスマス」という絵本の読み聞かせがありました。子供たちは、小室先生の生きた語りかたに、絵本に見入り、お話しに吸い込まれるように聞いていました。次は歌と演奏。4歳のAちゃんとHちゃんが「お星がひかる」の讃美歌を歌い、6才のSちゃんがバッハ作曲の「メヌエット ト長調」のバイオリン独奏、どちらもとても上手で可愛かったです。

その後は集会室に会場を移し、恒例のビンゴゲーム大会が賑やかに持たれました。数字がそろうと“ビンゴ―”と声をあげ、準備された景品を選び、大喜びでした。ここでおやつタイム、手作りのケーキとみかんを美味しくいただいたころ“メリー・クリスマス”と言ってサンタさんがやってきました。サンタさんが「1,2,」と声を上げると子供たちが声をそろえて「サンタ!」と応えて大盛り上がり。サンタさんから一人一人にクリスマスカードとお菓子がプレゼントされました。サンタさんをじっと見つめる子、サンタさんと握手する子などとても嬉しそうでした。

時間はあっという間に過ぎ、最後は礼拝堂に移動して、大きなツリーの前で記念撮影をし、黒田先生にお祈りをしていただき、会を閉じました。

この日のために婦人会の方々がケーキを焼いてくださいました。日曜学校の卒業生のWさん、そのお母さん、おばあちゃんが朝からお手伝い下さいました。多くの皆様にお支えいただきましたことを心より感謝いたします。このクリスマス会が、小さな子供たちの心に残り、神様に導かれてまた礼拝に参加できるようにと祈っています。

人生を献げる

彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイによる福音書2章11節)             

  牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。

そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言いました。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」東方とは、現在のイランの辺りではないかと言われています。

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱きました。王の地位を奪われるのではないかと心配したのです。エルサレムの人々も皆、不安を抱きました。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシア(救い主)はどこに生まれることになっているのかと問いただしました。

彼らは言いました。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(ミカ5:1参照)

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出しました。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まりました。星を通して、イエス様が彼らを導かれたのです。学者たちはその星を見て喜びにあふれました。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられました。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。これらの宝物は、少量でも非常に高価なもので、遠くから持ち運ぶのに適していました。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、学者たちは別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。 この後、学者たちがどうなったかは定かではありませんが、彼らはメシアについて研究をし、はるばる遠くから旅をして、宝物を献げただけでなく、人生そのものをイエス様に献げたのでした

2019年教会修養会報告

今年の修養会は11月10日(日)の午後、その日の午前中高槻教会牧師の持田克己先生を講師にお招きして捧げられた秋の特別礼拝に続いて、集会室にて持田先生と共に昼食をとった後、同じ場所で先生から再び「私のアメリカ体験とピューリタンのアメリカ」と題したお話を聴くという講演会の形で行われました。午前中の礼拝に出席された求道者や客員の方もそれぞれ1名ずつ加わって下さり、教会員と合わせて24名の出席でした。

まず全員で讃美歌320番を歌った後に、司会者の開会祈祷があり、その後約1時間超にわたる講演がありました。内容は最初、先生が1970年7月に渡米され、サンフランシスコの独立教会で奉仕された後に、東海岸のプリンストン神学校を卒業され、1980年までサンフランシスコのアメリカ長老教会(日本宣教ヘボンゆかりの)で奉仕された経験談に始まり、次に1620年のメイ・フラワー号甲板上での信仰に基づく「メイ・フラワー契約」の話やその後1630年のアーベラ号の出発直前のジョン・ウィンスロップの“Christian Charity(愛)”の重要な説教について語られました。これは当時のピューリタンの信仰を表したもので、神との契約を信じ、「丘の上に建てられた町」を新たに建てようと建国の理念が込められ、現在でもアメリカの信仰と精神を表現するものとして、古くはリンカーン大統領や、マルティン・ルーサーキング牧師、近年ではレーガン大統領をはじめ多くのリーダーたちや、アメリカの教会の中にもまた神学者ニーバー兄弟の思想の中にも息づいていることを示されました。また有名なハーバード大学(1636年創立)やそれに続くエール大学、プリンストン大学は、アメリカ建国(1776年)以前にピューリタン各派によって、それぞれ牧師を養成する目的で創設されたということ。しかしその後、現大統領の言動に見られるように、アメリカは経済的発展に伴い次第に、神への敬いから人間の傲慢さへと時代と共に変化してきている様に見えること。しかしそれでも、ピューリタンの精神は今でもこの国の底流となって生き続けているのではないかと結ばれました。

 その後会場からの質問に答えていただき、小室長老の祈祷にて閉会しました。解散の前に、この修養会の感想や学ばれたことを出席者された方に無記名で短く書いて提出していただきました。19名が書かれた内容を一覧にしてまとめましたので、次週皆様にお届けいたします。ご意見の中には午前中の先生の説教の中に示された、「信仰とは何か、生き方の全てであるというメッセージと合わせて、信仰について改めて考え直した」という意見が多く、この日が修養の一日となりましたことを持田先生と神様に深く感謝いたします。

信仰とは何であるか

秋の特別礼拝説教

                                                                 高槻教会牧師 持 田 克 己

『信仰の本質と動態』という本があります。著名な神学者パウロ・ティリッヒの書『DYNAMICS OF FAITH』の翻訳です。わたしは以前からこの本に書かれていることは信仰を考える上で非常に有益なものと考えていました。そこで、この本の内容を紹介しながら、信仰について述べてみたいと思います。

まず、彼は「『信仰』という語ほど、誤解と曲解と怪しげな定義をされている語は他にないだろう」と述べて、残念なこととしています。「信仰」は英語ではfaith,ドイツ語ではGlaube(ティリッヒはドイツ人です)と言われますが、その言葉は正しく理解されていないと述べています。英語やドイツ語はともかく、日本語で「信仰」という場合でも、迷信や、非科学的なもののように考えられることがよくあります。日本では「イワシの頭も信心から」という言葉もあります。そのような言葉さえあるのですから、彼は「本書は『信仰』という言葉を曲解と悪評から救おうとする一つの試みである」とさえ言っています。

さて、彼が本書で述べるのは聖書の本来的な信仰、わたしたちの信仰の在り方です。まず、「究極的な関わりとしての信仰」について述べます。私たち人間は他の動物と同様に衣食住を必要とするものですが、同時に究極的な関心を持つものです。そして、その関心は信仰によって神と関わるものです。旧・新約聖書によれば、人が究極的な関わりを持つのは神です。「あなたは心をつくし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)とありますが、ティリッヒはこの言葉こそ神への究極的な関心を明らかにするものとしています。信仰とはわたしたちにとって最も究極的な関心事なのです。

次に、彼が述べるのは、「人間の中心的な活動としての信仰」で、「究極的な関わりとしての信仰は、全人格の活動である」と述べています。全人格とは、知的・理性的なもの、意志・信じ行動する決断、情・喜びや悲しみ感謝など、その全てを総合したもののことです。すなわち、信仰とはわれわれの知性(理性)も、意志(決断)、感情(喜び悲しみ)、などの全ての人格を懸けて関わるべきものです。故に、彼は信仰を人間の中心的な活動、としています。このようなことを聞く時、わたしたちの社会で如何に「信仰」が曲解されているかがよく分かります。信仰は理性だけで関わるものではなく、意志だけで関わるのでもなく、まして感情だけで関わるのでもありません。それらを総合した全人格で関わるものです。その一つだけと集中的に関わろうとするなら、信仰の本質から外れてしまいます。信仰とは人間の全体を以て関わる事柄ですから、最も人格的行為なのです。故に彼は、信仰を人間の中心的な活動で最も人格的な行為とします。彼はさらに、信仰は聖なるものとの関わりである、としています。信仰は聖なる神との交わりであって、邪悪なものとの出会いではありません。人は道徳的に生きようとしますが、信仰こそ聖なるものとの出会い、交わりです。

最後にまとめとして: 信仰とは何であるかについて、ティリッヒの『信仰の本質と動態』を引用しながら、今まで語られたことを復習しますと、①「信仰」という言葉は非常に、誤解され、曲解されていること、②私たちの信仰は主キリスト・イエスによって教えられた神への究極的関心事であること、③信仰とは人間の全体、全人格を以て関わるべきものであること、すなわち「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」関わるべきものであり、ゆえに最も人格的な行為であること、④信仰とは私たちの活動の中心的行為であること、⑤信仰とは聖なるもの(聖なる神)との出会いであることです。聖書を通してわたしたちに与えられているのはそのような信仰であります。

2019年11月 罪の赦しと償い

わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。(ルカによる福音書19章8節)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、エルサレムに向かう旅の途中、エリコに入り、町を通っておられました。そこにザアカイという人がいました。この人は徴税人の頭で、金持ちでした。イエス様がどんな人か見ようとしましたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができませんでした。

それで、イエス様を見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。イエス様がそこを通り過ぎようとしておられたからです。

イエス様はその場所に来ると、上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様を迎えました。これを見た人たちは皆つぶやきました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言いました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエス様は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(ルカ19:1-10)

イエス様はザアカイの罪を赦し、そのままの姿で受け入れてくださいました。これがイエス様の愛です。イエス様の愛を受けた人は、罪を悔い改め、赦されたことに感謝します。そして、感謝の業として、罪を償うような気持で、今度は人を愛する者とされます。

私たちも罪を赦されたことに感謝し、人を愛する者とされたいものです。

2019年10月 からし種一粒の信仰

わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。(ルカによる福音書17章10節)

牧師 黒 田 浩 史

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主キリストは言われました。

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下せ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ17:5-6)

小さな信仰でも、信仰がある人の上には、神様が偉大な御業を起こしてくださいます。

また次のようにも言われました。

「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『食事の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7-10)

別の箇所では、こうも言われました。

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」(ルカ12:35-37)

主の再臨を待ち望みつつ、この世で与えられた勤めを忠実に果たす僕となりたいものです。

日曜学校夏期学校報告

8月24日(土)、午前9時から12時30分まで、住吉教会において日曜学校の夏期学校を実施しました。心配していた天候にも恵まれ、生徒は小さな幼児から小学生まで32名、大人は教師と保護者で21名の参加があり、久し振りに教会の庭に子どもたちの賑やかな歓声が響き、恵まれたひと時を過ごすことが出来ました。

礼拝から始まり、H校長先生がルカによる福音書24章36~43節を通して「魚を食べたイエス様」というお話をされました。

その後、お楽しみ会に入り、手作りの万華鏡製作をし、一人一人異なった美しい模様の見える作品が出来上がりました。次に、前日から庭に用意した大、小4つのプールで、小学生グループ、3~5才グループ、赤ちゃんグループに分かれ、水遊びを楽しみ、子どもたちは大はしゃぎでした。

充分水遊びをした後、前日から冷やしておいた大きなスイカ2つを庭に並べ、スイカ割り大会をしました。小学生たちは目隠しをして挑戦し、小さい子どもたちは目隠しなしの軽いバットで一生懸命スイカを叩きました。けれども、スイカは頑丈で、ひびはできましたが割れるところまで行きませんでした。スイカわり大会終了後、早速そのスイカを切り分け、みんなでお庭に座っていただきました。とっても甘いスイカで子どもたちは大満足でした。

最後に、集会室に戻り、黒田先生にお祈りをしていただき、夏期学校を閉じました。

教会員の皆様のお祈り、また、ご協力くださったご家族御方々にも感謝申し上げます。夏期学校に参加した子どもたちやそのご家族の上に、これからの神様のお導きとお守りが豊かにありますように、教師一同お祈りいたします。

2019年9月 真の謙遜

だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(ルカによる福音書14章11節)

 牧師 黒 田 浩 史

ある安息日のことでした。イエス様は食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになりましたが、人々はイエスの様子をうかがっていました。

イエス様は、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話されました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:8-11)

また、イエス様は招いてくれた人にも言われました。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:12-14)

わたしたちも、へりくだって謙遜になり、神様によって高めていただけるようになりたいものです。

2019年8月 愚かな金持ち

有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。(ルカによる福音書12章15節)

牧師 黒 田 浩 史

ある時、群衆の一人がイエス様に言いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

イエス様はその人に言われました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

そして、一同に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

それから、イエス様はたとえを話されました。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていけるだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

それから、イエス様は弟子たちに言われました。「だれか、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」(ルカ12:22-23)

そして、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」と言われました。(ルカ12:33)

私たちも、「上にあるものを求め」(頃さい3:1 参照)、天に富を積めるようになりたいものです。