今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2018年6月 人のための律法

安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。(マルコによる福音書3章4節)
牧師 黒田浩史

安息日についての御言葉です。旧約の律法には、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書いてあります(申命記5:13-14)。
しかしイエス様の弟子たちは、安息日に麦の穂を摘みました(マルコ2:23-28)。イエス様ご自身も、安息日に片手の萎えた人の病気をいやされました(同3:1-6)。前者は収穫の仕事、後者は医療の仕事であると見做されていたので、安息日の掟を破ったとして、イエス様を非難する人々がいました。

そこでイエス様は、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と仰せになりました(同3:4)。当時の人々は、律法を形式的には守っていましたが、その本当の意味を見失っていたのです。

安息日の意味は、次のように書いてあります。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。神様の救いの御業を思い起こして感謝することこそ、安息日の本当の意味です。そのために仕事を手を休めるのです。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、イエス様の十字架と復活の後、信じた人たちはイエス様の復活された「週の始めの日」すなわち日曜日を「主の日」と呼んで、イエス様の復活を思い起こして感謝をささげる日としました。曜日やその意味合いは変わりましたが、私たちは主の日に礼拝に集い、神様の御業を思い起こして感謝をささげます。

仕事の手を休めるのは、たとえ人間が一所懸命に働いたとしても、労働の実りを与えてくださるのは神様であることを思い起こすためでもあります。
人間の努力や働きの背後で働いてくださる神様に信頼して、日曜日には礼拝に集い御言葉を聴いて、神様の御業に感謝をささげましょう。

2018年5月 愛の掟

あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハネによる福音書15章10節より)
牧師 黒田浩史

イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)、「わたしにつながっていなさい」(4節)と仰せになりました。主日礼拝に集うことによって、私たちはイエス様とつながります。
そしてイエス様は「あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とも仰せになりました(10節)。イエス様の掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との掟です(12節)。この掟を守ることによっても、私たちはイエス様とつながることができます。

イエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とも仰せになりました(ヨハネ13:35)。弟子たちが互いに愛し合う姿を見て、まだ信じていない人たちがイエス様を信じるようになるというのです。
使徒言行録には、初期の教会の様子が記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります(使徒言行録4:32-33)。イエス様の復活を信じた人たちが、その教えに従い、互いに愛し合っている姿を見て、まだ信じていない人たちが信じて教会に加わってきたのです。「弟子の数はエルサレムで非常に増えていった」とあります(使徒言行録6:7)。

この掟の前半では、「わたしがあたがたがを愛したように」と言われています。イエス様が私たちに数多くの恵みを注いでくださり、特に十字架の上で私たちの罪の赦しのために苦しんでその命を献げてくださったことを意味しています。
私たちはまずは、自分の罪の大きさを思い、心から悔い改める必要があります。そして、イエス様が自分に対して、さまざまな形で愛を示してくださったことを思い起こす必要があります。

イエス様の愛を感じ、これに心から感謝して、私たちも互いに愛し合う者となれるように、ペンテコステ(聖霊降臨祭)を迎えるこの季節、聖霊の恵みを切に願い求めましょう。

2018年4月 見ないで信じる

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)

牧師 黒田浩史

イエス様が十字架に掛けられて殺された翌々日、ユダヤの安息日の次の日の朝のことでした。女性の弟子たちが墓へ行ってみると、墓の入り口の石はわきへ転がしてありました。白い長い衣を来た若者が右手に座っていて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言いました(マルコ16:1-7参照)。
イエス様が予告されていたとおり、三日目に復活されたのです。

イエス様が復活された日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていました。そこへ、イエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
弟子たちが集まっている姿は、信じる人たちが主の日の礼拝に集う姿を表しています。復活のイエス様は、礼拝共同体の真ん中に来てくださり、平和を与えてくださるのです。

弟子の一人であるトマスは、イエス様が来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。そのため、トマスはイエス様の復活を信じることができませんでした。しかし八日の後、弟子たちが再び集まっていたところへ、復活のイエス様は再び来てくださいました。
トマスはイエス様の復活を信じました。イエス様の体を目で見たから信じたように思われるかもしれませんが、イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである」と仰せになりました。トマスは今度は、他の弟子たちと一緒にいたから信じることができたのです。

私たちの場合も、信じる人たちが集っている礼拝共同体の中において、復活のイエス様と出会い、イエス様の復活を信じるようにされます。
復活されたイエス様のお体は天に上げられましたが(使徒言行録1:6-11参照)、地上にいる私たちは聖霊の働きによって、復活のイエス様とお会いし、信じることができるのです。
聖霊が私たち一人一人の上に豊かに降ることを切に願い求め、復活を信じる信仰が強められるよう祈りましょう。

2018年3月 神の不変の愛

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 (ヨハネによる福音書2章19節)

牧師 黒田浩史

イエス様が神殿を清められた場面です。神殿と言っても、エルサレムの神殿の建物ではなく、その境内での話です。
礼拝しに来た人たちが献げるための羊や鳩などの動物を追い出し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と仰せになりました(16節)。

これを見た人々は憤り、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました(18節)。
するとイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と仰せになりました(19節)。エルサレムの神殿は、この40年程後に実際にローマによって壊されてしまいました。イエス様は、そのことを前もって仰せになったのです。

それと同時に、イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでした。この後、十字架に掛けられて殺され、三日目に復活することを仰せになっていたのです。

聖書では、他にも神殿について言われている箇所があります。みだらな行いをする人たちに対し、それを止めるように勧めている箇所で、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と言われています(一コリント6:19)。
イエス様の体が神殿であると言われていたように、私たちの体も同じように神殿とされています。
神殿は、神様が宿る場所ないし建物と考えられていました。同じように、神殿とされた私たちの体には、神様が宿ってくださるのです。
イエス様も、「父(なる神)とわたしとはその人(イエス様を愛する人)のところに行き、一緒に住む」と言われていました(ヨハネ14:23)。これは聖霊の働きです。

しかし、イエス様を信じた人は、瞬時にしてその体が神殿になるのではありません。地上における苦しいことや辛いことを経て、少しずつ復活の命にあずかり、時間を掛けて神殿とされていくのです。
それは同時に、イエス様の復活の命を、今地上で生きながら、少しずつ生き始めていることでもあります。

十字架は、体が壊されるだけではありません。イエス様の十字架は、精神的な苦痛も激しかったと言われています。私たちも他者のために生きようとすると、辛いことがあります。そんなときは、私たちの心が壊されて、イエス様の十字架の姿に近づいているのです。
これまでの悩みや苦労の一つ一つを思い起こして、イエス様の十字架の姿と一体にされていることを思い、少しでも聖霊の宿ってくださる神殿に近づいていきたいものです。

2018年2月「心身の癒し」

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
(マルコによる福音書1章31節)

牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の方の場面です。
4人の漁師たちが、イエス様と出会って弟子になりました。そのうちの一人、ペトロの家での出来事です。
ペトロのしゅうとめが、熱を出して寝ていました。そこへイエス様がやって来られ、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。

ここでの病気は、人間の外からやって来てその人を苦しめる存在として登場しています。しかしイエス様は、そうした悪の力を追い出し、人間本来の姿を回復してくださいました。
その姿は、一同をもてなした姿、すなわち人に仕える姿です。「もてなす」と訳されている語の原語は、「食事の席で給仕する」という意味の語です。イエス様ご自身も、弟子たちの足を洗いましたが、これは元来は召使や奴隷のする仕事でした(ヨハネ13:1-11参照)。
「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」とも仰せになっていました(マルコ10:45参照)。

これは、愛の業でもあります。見返りを求めない愛であり、見返りを与えてくれない人に対する愛の業です。それは、一方向的な愛です。
私たちは、互いに心を通い合わせることのできる愛を求めがちですが、それは見返りのある愛でもあります。しかし、イエス様の愛は、見返りがあっても無くても行う愛でした。

最初にイエス様の弟子になった4人は、仕事道具や父親をその場に残して、イエス様に従いました(マルコ1:16-20)。物を捨てるだけでなく、執着を捨ててイエス様に従ったのです。
見返りを求める気持ちも、一つの執着です。「この人に好かれたい」というような思いです。
しかし、見返りを与えてくれない人への愛は、「この人から大事に思われても別に嬉しいとは思わない」という人を大事にしたり、思いやる愛です。

別の箇所でイエス様は、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と仰せになりました。この人たちは、お返しができない人たちだからだというのです。お返し、すなわち見返りを与えてくれない人に対する愛の業を勧められたのです(ルカ14:12-14)。
イエス様を信じ、イエス様に従う私たちも、人に対する執着を捨てて、見返りを求めない愛を実践していきましょう。

2018年1月「暗闇に輝く光」

「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
(ルカによる福音書1章78-79節)

牧師 黒田浩史

クリスマスは、救い主イエス様のご降誕のお祝いの日です。しかし12月25日は、史実としてのイエス様の誕生日ではありません。4世紀にキリスト教がローマ帝国に広がったとき、ローマの太陽のお祭りを、イエス様の誕生の記念日と定めたのです。12月25日は、この時代のローマでは冬至の日付でした。昼の時間が最も短くなる日です。この日を境にして、太陽は輝きを増していきますから、太陽を神のように崇めていた当時の人々は、太陽の光がもっと強くなってもらいたいという願いを込めてお祭りをしたのでしょう。キリスト教会は、イエス・キリストこそまことの太陽であると解釈し、元来は異教的なお祭りであったものを、キリスト教の中に取り入れたのです。

現代の暦では、2017年の冬至は12月22日だったそうです。これから春に向かって、昼の時間が少しずつ長くなっていきます。

しかし、気温はすぐには上がらず、1月から2月にかけて、気温は低くなっていきます。春の陽気が訪れるには、もう少し時間が掛かります。

すぐにではなく時間が掛かるという点は、神様の救いの御業に似ています。イエス様がお生まれになったのは、およそ二千年前ですが、ローマという外国に占領され、ヘロデ王という残忍な王様が支配していた暗い時代でした。イエス様が宣教活動を開始し、病気の人を癒したり、慰めの御言葉を語ったりされるには、あと30年くらい待たなくてはなりませんでした。

神様は現代の私たちに対しても、数々の恵みを注いで心に掛けてくださっていますが、その神様の御業が効果を発揮するのも、今すぐにではなく、やはり時間が掛かるのです。しかし、目に見えて物事が良くなったり、悩みが解決したりはしなくても、神様の恵みの御業は確実に行われます。冬至を過ぎて陽が長くなれば、やがて確実に春が訪れるのに似ています。

希望が見えないような、いわば冬至のような時代かもしれませんが、およそ二千年前にイエス様のご降誕によって始められた神様の救いの御業が、やがて必ず実現することを信じて、希望のうちに新しい年を迎えましょう。

2017年12月「目覚めて待つ」

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

(マルコによる福音書13章33節)

牧師 黒 田 浩 史

教会の暦の一年は、待降節から始まります。11月30日に最も近い主日(日曜日)からクリスマスイヴ(12月24日)までの約4週間で、最も早い年で11月27日、遅い年でも12月3日に始まります。待降節には、二重の性格があり、一つは御子イエス様のご降誕のお祝いであるクリスマスの準備の季節という性格です。もう一つは、イエス様の第二の到来である終末における再臨へと心を向ける季節という性格です。

イエス様の再臨へと心を向けるということで、イエス様は「目を覚ましていなさい」と仰せになりました(マルコ12:33)。肉体的にずっと眠らないという意味ではなく、地上の生涯において与えられた務めを忠実に果たしなさい、という意味です。

この御言葉は、イエス様が十字架に掛けられる直前、エルサレムの神殿の境内で教えておられたときに語られました。神殿の境内では、金持ちたちが有り余る中から献金していたのに対し、貧しいやもめが生活費全部を献金した姿をご覧になり、このやもめの信仰を褒めておられました(12:41-44)。一方、弟子たちは神殿の建物の大きさや豪華さに目を奪われ、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感激していました。しかしイエス様は、神殿の破壊を予告し、神殿には貧しいやもめの信仰以外には見るべきものは何もないかのようにして、境内を立ち去られました(13:1-2)。そして、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と仰せになり(13:31)、物質的なものはどんなに立派であっても滅びることを教えられました。

その教えに続いて語られたのが、「目を覚ましていなさい」との御言葉です。主人が旅に出かけた僕たちの譬えを語られ、主人が留守の間でも、与えられた務めを忠実に果たすようにと仰せになりました(13:32-37)。主人が留守なので、主人が見ていないからといって、怠けたり悪いことを行ってもいいと考えるのは愚かなことだと仰せになります。譬えでは、主人は神様のことなのですが、人間の主人と同じように考えてしてしまい、見ていないところでは何をしてもいいと考えてしまったのです。しかし、人間からの評価も、天地と共にやがて滅びます。これに対し、神様からの評価はいつまでも残るものであり、これを求めて生きるべきなのです。

クリスマスを迎えようとするこの季節、生活費全部を献げた貧しいやもめのように、神様から評価していただける生き方を求めたいものです。

2017年11月「悪いお手本」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 」

                                                                                                 (マタイによる福音書23章12節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、当時の宗教的指導者たちの偽善を指摘しました。偽善とは、日本語でも「偽の善」と書くように、偽物の善人、すなわち本当は善人ではないのに、そう見せかけている人のことです。

偽善者の特徴の一つは、他人を裁くことです。しかしイエス様は、悔い改める罪人には優しい方ですが、他人を裁く人に対しては厳しい方です。宗教的指導者だけでなく、普通の人でも、他人を裁いて偽善者になってしまう危険があります。

イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と仰せになりました(マタイ7:1)。また、姦通の現場で捕らえられた女性に対し、今にも石を投げて死刑にしようとしている人たちに向かい、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とも仰せになりました(ヨハネ8:1-11参照)。

偽善者は、人々に見せている立派な自分と、現実の罪深い自分との間のギャップが大きい人です。しかしクリスチャンは、常に神様の前に立っていますから、このギャップは小さく、人格の一貫性を保つことができます。

イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰せになりました(マタイ23:12)。「へりくだる」は、神様の前に自分を低くすることですが、そうして低くなった同じ自分のままで、人にも接するのです。神様の前と人の前とで、別の顔になる必要はありません。

「高められる」の「高める」は、イエス様の復活をも意味しています。へりくだった人は、イエス様の十字架によって罪を赦され、その復活によって天にまで高められるのです。その心は神様のような心に高められ、もはや他人を裁くこともなくなり、愛や慈しみに生きる人となります。

イエス様を信じて、心や人格の一貫性を与えられ、神様のような心、イエス様のような心で人に接することができるよう願いたいと思います。

2017年10月「心の方向転換」

「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

(マタイによる福音書21章31節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の譬え話です。

「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21:28-31)

ポイントは、後で考え直したかどうかです。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの教えを聴いて悔い改めました。ここでは、兄のほうに譬えられています。ところが、当時の宗教的指導者たちは、ヨハネを信じようとしませんでした。ここでは、弟の方に譬えられていて、イエス様は彼らを咎めておられます。

しかしよく考えてみると、「いやです」と答えた兄は、とても正直な人だったのでしょう。昔のことですから、父親の言いつけは、そう簡単には断れなかったはずです。誰しも楽をしたいものです。自分の本当の気持ちを素直に言えた兄の姿は、私たちも神に対しては素直になり、ありのままの姿でいいことを表しています。

けれども、そうした素直な気持ちの中に同時に、父親の役に立ちたいという思いも存在していました。一人の人間の心の中に、二つの思いが同時に存在しているのです。兄はその素直な気持ちに従い、後で考え直してぶどう園に出掛けたのでした。

では、イエス様と出会った私たちの本当の気持ちとは、いったいどういう気持ちでしょうか。イエス様は、十字架に掛かり復活された方です。十字架は辛くて苦しいものですから、誰しも避けたいと思います。しかし同時に、イエス様の貧しくへりくだった姿や、人のために生きる姿にも、私たちは心を惹かれるのではないでしょうか。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と聖書は語っています(一コリント1:18)。イエス様の十字架の姿に心を惹かれ、その後に従う私たちには、神の力すなわち復活の力が与えられます。この世でどんなに困難や辛いことがあっても、神様の力によってこれらを乗り越えていくことができるのです。

2017年9月「死を越えて」

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

(マタイによる福音書16章25節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様がご自分の十字架と復活の予告をされた場面です。

弟子のペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました(22節)。後に教会の指導者となったペトロですが、まだ十字架と復活のことは分かっていなかったのです。当時は多くの人々が、メシア(救い主)の到来を期待していました。この時代のメシアのイメージは、政治的な指導者としてローマからユダヤを解放し、独立国家を築いてくれるような人物でした。

そこでイエス様は、私たちも王様のようになって全世界を手に入れたいのか、それともイエス様に倣って真の命を得たいのかの選択を迫られました(25-26節参照)。全世界まで欲しいと思う人は稀としても、自分の小さな世界の中で自分の思い通りにしたいと願う人は多いです。けれども、イエス様を信じてこの方に従うことは、その姿に倣い、十字架の道を歩むことです。イエス様は私たちに対しても、どちらを選ぶか問うておられるのです。「私は一体何を求めて教会へやって来たのだろう」と自分自身に問うてみる必要があります。世間的な成功などではなく、やはりイエス様に倣って愛や赦しに生きる人間になりたいと願って信仰に入ったのではないでしょうか。

そのような私たちに対してイエス様は、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになります(24節)。「自分の十字架」とは、文字通り十字架の上で殺されることというより、精神的な苦痛を忍ぶという意味もあります。十字架刑は、肉体的な苦痛と同時に、精神的な苦痛も相当激しかったと言われています。大勢の人たちが見ている前で、侮辱されつつ、苦しみながら死んでいくからです。

それゆえ、イエス様に倣う際の精神的な苦痛とは、屈辱を忍ぶこと、へりくだって頭を下げること、嘘の悪口に耐えることなどです。この世では何の見返りもなく、ただ辛いだけのように見えるかもしれませんが、イエス様の姿と同じような姿になるとき、真の命を生きていることになるのです。特に、人をかばうためなど、他者のためにこうした苦痛を忍ぶならば、まさにイエス様と同じ姿になっています。

「私は人から馬鹿にされてもいいです。イエス様と同じ姿になりたくて信仰に入ったのですから」と言えるようになりたいものです。