今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2019年2月 恵み深い教え

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した。」(ルカによる福音書4章21節)
牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の場面です。イエス様はお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読されました。旧約のイザヤ書の巻物が渡され、イザヤ書61章の御言葉を朗読されました。そこには、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」と書いてありました(16-19節)。
朗読が終わると、イエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(21節)。当時は、裕福な人が神様の祝福を豊かに受けていると考えられていたため、人々はイエス様のこの教えに驚きました。

しかし、人々は「この人はヨセフの子ではないか」と言って、イエス様を受け入れようとしませんでした(22節)。同じ町の出身で、子供の頃からよく知っている人なので、そういう人が立派な教えを語ることを受け入れることができなかったのです。
すると、イエス様は彼らに対して「あなたがたは『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない」と仰せになりました(23節)。カファルナウムは近くの町ですが、他の町でイエス様が奇跡の御業を行われたのに、自分たちの町ではしてくれないことを、おもしろく思わなかったのです。イエス様の恵みを自分たちだけで独占したいと願ったのでしょう。
そして、旧約時代の預言者たちも、郷里ではなく他の町へ遣わされて奇跡を行ったと仰せになり、有名なエリヤとエリシャの二人の預言者の例を挙げられました(25-27節)。

これを聞いた人々は皆憤慨し、イエス様を殺そうとしましたが、イエス様は彼らの間を通り抜けて立ち去られました(28-30節)。
ナザレの人々は、イエス様の恵みを独占しようとして、結局は恵みを受け取ることができませんでした。私たちは素直な心でイエス様を受け入れ、その恵みを受け取りたいものです。

2019年1月 最高の献げ物

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2章11節)
牧師 黒田浩史

イエス様がお生まれになったとき、占星術の学者たちが東の方からやって来ました。この人たちは、ペルシアの宗教の祭司のような人たちだったと言われています。このことは、旧約時代から預言されていて、「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」と言われています(イザヤ60:6)。
旧約の預言の通りに、東の方からやって来た学者たちは、イエス様に高価な贈り物を献げました。

学者たちは、星に導かれて東方からユダヤへやって来ましたが、ついに幼子イエス様のおられたベツレヘムという町まで来ました(2、9節)。
彼らはイエス様のおられた家に入り、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました(11節)。いずれも少量で高価な品物であり、遠くから持ち運んで来るのに適したものでした。

彼らは外国人でしたので、旧約で規定されているように犠牲の動物を献げてイエス様を拝んだわけではありませんでした。しかし幼子イエス様は、真心のこもった彼らの贈り物を喜んで受け取られたことでしょう。
彼らが献げた贈り物は、イエス様とご両親にとって大変役に立つものでした。この後、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させましたが、イエス様とご両親は虐殺を逃れるためにエジプトへ行かれました(13-18節参照)。学者たちが献げた高価な贈り物は、その際の旅費や滞在費に充てられたと言われています。

学者たちは彼らなりの仕方で真心を込めてイエス様を拝み、イエス様の役に立つ贈り物を献げました。
同じように私たちもこの年、真心を込めてイエス様を拝み、人の役に立つような愛の業を行いたいものです。

2018年12月 目覚めて待つ

「いつも目を覚まして祈りなさい。」
(ルカによる福音書21章36節より)
牧師 黒田浩史

終末についてのイエス様の御言葉です。終末すなわちこの世の終わりが訪れる前に、次のようなことが起こると仰せになりました。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言う」(8節)。「戦争とか暴動のことを聞」く(9節)。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(10-11節)。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(26節)。

このようなことが起こった後にこの世の終わりが訪れるというのですが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とも仰せになっています。「子」とはイエス様のことです(マルコ13:32参照)。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」とも仰せになりました(34節)。

しかし、イエス様を信じる私たちに対して「あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と言われているように、救いの完成を待ち望み、希望のうちに終末を迎えるようにと言われています。
そして、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と仰せになりました(34節)。この御言葉は、この世の物質的な豊かさを警戒するようにという意味でもあります。物質的に豊かであると、神様に頼らなくなる危険があるからです。

ですから、常に心を神様の方へ向け、「いつも目を覚まして祈りなさい」と仰せになりました(36節)。「いつも目を覚まして」というのは、夜も寝ないでという意味ではありません。「いつも心を神様の方へ向け、終末への相応しい備えをするように」とイエス様は仰せになるのです。
そうした相応しい備えとして、イエス様は愛の業を勧めておられます(マタイ25:31-46参照)。

2018年11月 最も重要な掟

「第一の掟は、これである。…『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(マルコによる福音書12章29-31節より)
牧師 黒田浩史

一人の律法学者がイエス様に、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました(28節)。
イエス様は、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」と仰せになりました(29-30節)。
これは、旧約の申命記に書かれている掟です(申命記6:4-5)。申命記ではこの言葉に続いて、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と書いてあり(申命記6:6-7)、とても大事な掟でした。

次にイエス様は、「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」と仰せになりました(31節)。
これと関連して他の箇所では、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」とも言われています(一ヨハネ4:20-21)。

旧約では貧しい人や寄留者(土地を持たない外国人)などを大事にするように勧られています(レビ19:9-10参照)。
この箇所の冒頭には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」ともあります(レビ19:2)。神様が私たち人間を愛されたように、私たちも隣人を愛することによって、聖なる者になるようにと言われています。

「愛」という言葉は、日本語では主に男女の愛を意味する言葉だったそうです。キリシタン時代には聖書の愛を「ご大切」と訳しました。相手を思いやる行いのことです。
私たちにとって隣人とは誰のことでしょうか。イエス様の御言葉にもとづいて、少しでも隣人愛を実行できるようになりたいものです。

2018年10月 離縁について

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」
(マルコによる福音書10章6節)
牧師 黒田浩史

ファリサイ派の人々がイエス様に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました(2節)。彼らは、当時の宗教の指導者たちでした。イエス様を試そうとして、こう訪ねたのです。

イエス様は、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました(3節)。モーセは旧約時代に神様から律法を授かり、人々にそれを教えた人物です。

彼らは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました(4節)。

イエス様は言われました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(5-9節)

 

旧約の創世記には、天地創造の個所で「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世記1:27)。そして、神様は最初の人(男)を創造されると、彼に合う助ける者として女を造られました(創世記2:22)。

イエス様は「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われましたが、創世記には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書いてあります(創世記2:24)。

 

家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねました。イエス様は「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われました(10-12節)。

 

離縁については、パウロは次のようにも書いています。「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」(一コリント7:15)。

2018年9月 人の内側の汚れ

「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7章20節)
牧師 黒田浩史

当時の宗教の指導者であるファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエス様のことを非難しました。彼らは、イエス様の弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエス様に尋ねました(5節)。
ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしませんでした。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんありました(3-4節参照)。

そこでイエス様は彼らに、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言われました(8節)。「人間の言い伝え」とは、聖書には記されていませんが、後の時代に付け加えられた掟のことで、上記のように昔から受け継いでファリサイ派の人々をはじめユダヤ人が固く守っている掟がたくさんありました。
これに対し「神の掟」は、神様が私たち人間に守るようにと教えておられる掟のことです。神様は旧約時代に民の指導者モーセを通して、数々の掟をお与えになりました。これらの掟を民に教える前にモーセは、「今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言いました(申命記4:1参照)。神様が与えられる掟を守るならば、神様が豊かな恵みを与えてくださるというのです。
これらの掟こそ大事ですから、イエス様は後の時代に付け加えられた掟は守らなくてもいいと仰せになったのです。食べ物に関する掟についても、守らなくていいと考えておられたと言われています(15節参照)。

そして、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と仰せになりました(20-23節)。
心の中の悪い思いを取り除き、良い思いが言葉や行いとなって外に出て来るようになりたいものです。

2018年8月 永遠の命の食べ物

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6章27節)
牧師 黒田浩史

イエス様は、五つのパンと二匹の魚を増やして五千人に食べ物を与えられました(1-15節)。その後、湖の向こう岸のカファルナウムへ行かれました(16-21節)。パンを食べた群衆は、イエス様を捜し求めてカファルナウムに来ました(24節)。

イエス様は群衆に「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と仰せになりました(26-27節)。
すると群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました(28節)。イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになりました(29節)。
「神がお遣わしになった者」とはイエス様のことですから、イエス様を信じることが、神の業であるという意味です。

イエス様を信じることは、心の中で信じるだけでなく、イエス様と共に歩むことでもあります。イエス様はこの後で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と仰せになりました(54節)。聖餐のパンとぶどう酒のことを意味しています。しかし、弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました(60節)。そして、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなりました(66節)。
彼らはイエス様を信じることができずに、イエス様から離れ去ったのですが、イエス様を信じるということは、イエス様と共に歩むことを意味しています。

イエス様は十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました(67節)。すると、弟子の一人であるペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言いました(68節)。
私たちもイエス様は永遠の命を与えてくださる方であると信じて、聖書の御言葉を聴き、聖餐のパンとぶどう酒にあずかり、イエス様と共に歩んで、永遠の命を生きる者とされましょう。

2018年7月 信仰による救い

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 (マルコによる福音書5章34節より)
牧師 黒田浩史

イエス様によって病気をいやしてもらった女性と、死んだ娘を生き返らせてもらった男性が登場します。

病気をいやしてもらった女性は、12年間も出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけでした。しかし、イエス様が近くにやって来られたので、そのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。
すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じました。
イエス様は、自分の内から力が出て行ったことに気づき、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われました。女性は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。
当時は、出血している女性は汚れていると見做され、一般の人に近づくことも禁じられていました。そして、他人の服に触れてその力をもらうことは、その人から力を盗み取るような行為と思われていました。
ところがイエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じてイエス様にお願いしたことを、高く評価されたのです。

死んだ娘を生き返らせてもらった男性は、会堂長であり、社会的地位の高い人でした。にもかかわらず、人目を気にせずにイエス様の足もとにひれ伏し、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください」とお願いしました。この方ならいやしてくださると信じてお願いしたのです。
彼の娘は、イエス様が家に到着する前に亡くなりました。しかしイエス様は、子供の手を取って「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のことを仰せになりました。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き出しました。イエス様は、死んだ人をも生き返らせる力を持っておられるのです。

この方を信じる人は、死んでも生きるのです。生きていてこの方を信じる人はだれも、決して死ぬことはないのです。このことを信じましょう(ヨハネ11:25-26参照)。

2018年6月 人のための律法

安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。(マルコによる福音書3章4節)
牧師 黒田浩史

安息日についての御言葉です。旧約の律法には、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書いてあります(申命記5:13-14)。
しかしイエス様の弟子たちは、安息日に麦の穂を摘みました(マルコ2:23-28)。イエス様ご自身も、安息日に片手の萎えた人の病気をいやされました(同3:1-6)。前者は収穫の仕事、後者は医療の仕事であると見做されていたので、安息日の掟を破ったとして、イエス様を非難する人々がいました。

そこでイエス様は、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と仰せになりました(同3:4)。当時の人々は、律法を形式的には守っていましたが、その本当の意味を見失っていたのです。

安息日の意味は、次のように書いてあります。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。神様の救いの御業を思い起こして感謝することこそ、安息日の本当の意味です。そのために仕事を手を休めるのです。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、イエス様の十字架と復活の後、信じた人たちはイエス様の復活された「週の始めの日」すなわち日曜日を「主の日」と呼んで、イエス様の復活を思い起こして感謝をささげる日としました。曜日やその意味合いは変わりましたが、私たちは主の日に礼拝に集い、神様の御業を思い起こして感謝をささげます。

仕事の手を休めるのは、たとえ人間が一所懸命に働いたとしても、労働の実りを与えてくださるのは神様であることを思い起こすためでもあります。
人間の努力や働きの背後で働いてくださる神様に信頼して、日曜日には礼拝に集い御言葉を聴いて、神様の御業に感謝をささげましょう。

2018年5月 愛の掟

あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハネによる福音書15章10節より)
牧師 黒田浩史

イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)、「わたしにつながっていなさい」(4節)と仰せになりました。主日礼拝に集うことによって、私たちはイエス様とつながります。
そしてイエス様は「あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とも仰せになりました(10節)。イエス様の掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との掟です(12節)。この掟を守ることによっても、私たちはイエス様とつながることができます。

イエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とも仰せになりました(ヨハネ13:35)。弟子たちが互いに愛し合う姿を見て、まだ信じていない人たちがイエス様を信じるようになるというのです。
使徒言行録には、初期の教会の様子が記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります(使徒言行録4:32-33)。イエス様の復活を信じた人たちが、その教えに従い、互いに愛し合っている姿を見て、まだ信じていない人たちが信じて教会に加わってきたのです。「弟子の数はエルサレムで非常に増えていった」とあります(使徒言行録6:7)。

この掟の前半では、「わたしがあたがたがを愛したように」と言われています。イエス様が私たちに数多くの恵みを注いでくださり、特に十字架の上で私たちの罪の赦しのために苦しんでその命を献げてくださったことを意味しています。
私たちはまずは、自分の罪の大きさを思い、心から悔い改める必要があります。そして、イエス様が自分に対して、さまざまな形で愛を示してくださったことを思い起こす必要があります。

イエス様の愛を感じ、これに心から感謝して、私たちも互いに愛し合う者となれるように、ペンテコステ(聖霊降臨祭)を迎えるこの季節、聖霊の恵みを切に願い求めましょう。