今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2019年8月 愚かな金持ち

有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない。(ルカによる福音書12章15節)

牧師 黒 田 浩 史

ある時、群衆の一人がイエス様に言いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

イエス様はその人に言われました。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

そして、一同に言われました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

それから、イエス様はたとえを話されました。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていけるだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

それから、イエス様は弟子たちに言われました。「だれか、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」(ルカ12:22-23)

そして、「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」と言われました。(ルカ12:33)

私たちも、「上にあるものを求め」(頃さい3:1 参照)、天に富を積めるようになりたいものです。

2019年7月 弟子として生きる

行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。(ルカによる福音書10章3節)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様は十二人の弟子を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになりました。十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやしました。(ルカ9:1,6参照)

イエス様はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされました。そして、彼らに言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に根が居なさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。

平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」(ルカ10:1-9参照)

イエス様によって遣わされた七十二人は喜んで帰って来て、こう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

イエス様は言われました。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17-20参照)

イエス様の弟子である私たちも、それぞれの場所に遣わされています。イエス様の教えに従い、神の国の働き手として働き、豊かな収穫を得ることができるようになりたいものです。

2019年6月 全世界への派遣

イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒言行録1章9節)  

牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、復活された後、四十日にわたって弟子たちにお姿を現わされました。

ルカによる福音書には次のように書いてあります。

イエス様は言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:44-53)

使徒言行録にもイエス様の昇天の様子が記されています。

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(使徒言行録1:3-9)

この後、イエス様が約束されたとおりに地上に聖霊が降り、教会が誕生しました。(使徒言行録2:1-4参照)

2019年5月 イエス様が大好き

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」と言われた。 (ヨハネ福音書21章12節)

牧師 黒田浩史

イエス様は復活された後、弟子たちの故郷であるガリラヤでも御自身を現わされました。

弟子の一人であるペトロは、イエス様が復活された後、ガリラヤへ帰り、他の弟子たちと一緒に漁に出ました。彼らは、弟子になる前は漁師の仕事をしていたのです。しかし、その夜は何もとれませんでした。

夜が明けたころ、イエス様が岸辺に立っておられました。しかし、弟子たちはそれがイエス様だとは分かりませんでした。

イエス様は弟子たちに「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。そこで、弟子たちが網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができませんでした。

弟子たちが陸に戻ってくると、炭火がおこしてありました。その上に魚がのせてあり、パンもありました。イエス様が「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、153匹もの大きな魚でいっぱいでした。

イエス様は「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われました。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」とは言いませんでした。その方がイエス様であることを知っていたからです。イエス様は来て、パンを取って弟子たちに与えられました。魚も同じようにされました。

弟子たちは、夜通し働いたのに何も取れなくて、疲れ切っていたことでしょう。そこへイエス様が、食事の準備をして、弟子たちのことを思いやってくださいました。

イエス様はこのときだけでなく、これまでもずっと、弟子たちを同じように思いやり、いろいろと面倒をみてくださったことでしょう。弟子たちは、このようなイエス様が大好きだったと思います。

イエス様は、その復活を信じる私たちに対しても、同じように思いやり、いろいろと面倒をみてくださる方です。私たちもイエス様をますます大好きになり、信じてその後に従って行きたいと思います。

2019年4月 罪と赦し

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」  (ヨハネ福音書8章7節)

牧師 黒田浩史

一人の女性が姦通の現場で捕らえられ、律法学者たちやファリサイ派の人々がその女性をイエス様のもとに連れて来ました。彼らはイエス様に「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と言いました(8:4-5)。

イエス様は別の箇所で「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」と仰せになっているように(8:15)、あくまでも人を赦す方です。もしイエス様がこの女性をも赦したならば、律法に背くことになるので、イエス様を訴える口実を得るために、彼らはこう言ったのでした。

そこで、イエス様は彼らに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と仰せになりました(8:7)。すると、これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス様ひとりと、その女性が残りました。

年長者から立ち去ったのは、年を取って賢くなったおかげで、自分も罪を犯したことがある人間なのに、この女性を裁いて石を投げることはできないことに気付いたからかもしれません。あるいは、年長者はこれまで長く生きて来たので、この女性より自分の方がより多くの罪を犯して来たことに気付いたからかもしれません。

イエス様は「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と仰せになりました(8:11)。「わたしは誰をも裁かない」と仰せになっているとおり、この女性の罪を赦してくださいました。

イエス様によって罪を赦されたこの女性は、イエス様を信じるようになり、人を赦すことのできる人になったことでしょう。

私たちもイエス様によって罪を赦されているのですから、誰をも裁かず、人を赦すことのできる者になりたいと思います。

2019年3月 偽善者

「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」(ルカによる福音書6章42節)     

牧師 黒田浩史

イエス様の教えは大変難しく、だれも守ることができないのではないかと思うことがあります。しかし、私たち人間が地上では完全には守れなくても、やがて天国に迎え入れられ、救いが完成するときに完全に守れるようにしていただけます。

ですから、「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」と仰せになりました(6:40)。「師」はイエス様のことですから、「弟子」である私たちキリスト者は、イエス様のようになれるよう、イエス様のお姿にならい、その姿に少しずつ近づいていくのです。

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とも仰せになりました(6:41-42)。

他人の欠点はよく目につきますが、自分の欠点はなかなか気づかないものです。しかしイエス様は、「まず自分の欠点を取り除きなさい」と仰せになります。聖書の御言葉に照らし合わせて、その教えに背く行いがあれば、もうしないように気を付けるのです。

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」(6:43-44)という教えでは、「木」は人の心、「その結ぶ実」は人が発する言葉を意味しています。心が悪ければ、悪い言葉が出て来るのです。ですから、まずは心を清めなくてはなりません。人のことを妬んだり悪く思ったりする心を改めて、神様に感謝し、人にも感謝する心を養う必要があります。

私たちキリスト者の生きる目標はイエス様です。イエス様のお姿に少しでもならいたいものです。

2019年2月 恵み深い教え

「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した。」(ルカによる福音書4章21節)
牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の場面です。イエス様はお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読されました。旧約のイザヤ書の巻物が渡され、イザヤ書61章の御言葉を朗読されました。そこには、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれた」と書いてありました(16-19節)。
朗読が終わると、イエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されました(21節)。当時は、裕福な人が神様の祝福を豊かに受けていると考えられていたため、人々はイエス様のこの教えに驚きました。

しかし、人々は「この人はヨセフの子ではないか」と言って、イエス様を受け入れようとしませんでした(22節)。同じ町の出身で、子供の頃からよく知っている人なので、そういう人が立派な教えを語ることを受け入れることができなかったのです。
すると、イエス様は彼らに対して「あなたがたは『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない」と仰せになりました(23節)。カファルナウムは近くの町ですが、他の町でイエス様が奇跡の御業を行われたのに、自分たちの町ではしてくれないことを、おもしろく思わなかったのです。イエス様の恵みを自分たちだけで独占したいと願ったのでしょう。
そして、旧約時代の預言者たちも、郷里ではなく他の町へ遣わされて奇跡を行ったと仰せになり、有名なエリヤとエリシャの二人の預言者の例を挙げられました(25-27節)。

これを聞いた人々は皆憤慨し、イエス様を殺そうとしましたが、イエス様は彼らの間を通り抜けて立ち去られました(28-30節)。
ナザレの人々は、イエス様の恵みを独占しようとして、結局は恵みを受け取ることができませんでした。私たちは素直な心でイエス様を受け入れ、その恵みを受け取りたいものです。

2019年1月 最高の献げ物

「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(マタイによる福音書2章11節)
牧師 黒田浩史

イエス様がお生まれになったとき、占星術の学者たちが東の方からやって来ました。この人たちは、ペルシアの宗教の祭司のような人たちだったと言われています。このことは、旧約時代から預言されていて、「らくだの大群、ミディアンとエファの若いらくだが、あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる」と言われています(イザヤ60:6)。
旧約の預言の通りに、東の方からやって来た学者たちは、イエス様に高価な贈り物を献げました。

学者たちは、星に導かれて東方からユダヤへやって来ましたが、ついに幼子イエス様のおられたベツレヘムという町まで来ました(2、9節)。
彼らはイエス様のおられた家に入り、ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました(11節)。いずれも少量で高価な品物であり、遠くから持ち運んで来るのに適したものでした。

彼らは外国人でしたので、旧約で規定されているように犠牲の動物を献げてイエス様を拝んだわけではありませんでした。しかし幼子イエス様は、真心のこもった彼らの贈り物を喜んで受け取られたことでしょう。
彼らが献げた贈り物は、イエス様とご両親にとって大変役に立つものでした。この後、ヘロデ王はベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させましたが、イエス様とご両親は虐殺を逃れるためにエジプトへ行かれました(13-18節参照)。学者たちが献げた高価な贈り物は、その際の旅費や滞在費に充てられたと言われています。

学者たちは彼らなりの仕方で真心を込めてイエス様を拝み、イエス様の役に立つ贈り物を献げました。
同じように私たちもこの年、真心を込めてイエス様を拝み、人の役に立つような愛の業を行いたいものです。

2018年12月 目覚めて待つ

「いつも目を覚まして祈りなさい。」
(ルカによる福音書21章36節より)
牧師 黒田浩史

終末についてのイエス様の御言葉です。終末すなわちこの世の終わりが訪れる前に、次のようなことが起こると仰せになりました。
「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言う」(8節)。「戦争とか暴動のことを聞」く(9節)。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」(10-11節)。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(26節)。

このようなことが起こった後にこの世の終わりが訪れるというのですが、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない」とも仰せになっています。「子」とはイエス様のことです(マルコ13:32参照)。「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」とも仰せになりました(34節)。

しかし、イエス様を信じる私たちに対して「あなたがたの解放の時が近いからだ」(28節)と言われているように、救いの完成を待ち望み、希望のうちに終末を迎えるようにと言われています。
そして、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と仰せになりました(34節)。この御言葉は、この世の物質的な豊かさを警戒するようにという意味でもあります。物質的に豊かであると、神様に頼らなくなる危険があるからです。

ですから、常に心を神様の方へ向け、「いつも目を覚まして祈りなさい」と仰せになりました(36節)。「いつも目を覚まして」というのは、夜も寝ないでという意味ではありません。「いつも心を神様の方へ向け、終末への相応しい備えをするように」とイエス様は仰せになるのです。
そうした相応しい備えとして、イエス様は愛の業を勧めておられます(マタイ25:31-46参照)。

2018年11月 最も重要な掟

「第一の掟は、これである。…『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(マルコによる福音書12章29-31節より)
牧師 黒田浩史

一人の律法学者がイエス様に、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました(28節)。
イエス様は、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」と仰せになりました(29-30節)。
これは、旧約の申命記に書かれている掟です(申命記6:4-5)。申命記ではこの言葉に続いて、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」と書いてあり(申命記6:6-7)、とても大事な掟でした。

次にイエス様は、「第二の掟はこれである。『隣人を自分のように愛しなさい』」と仰せになりました(31節)。
これと関連して他の箇所では、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」とも言われています(一ヨハネ4:20-21)。

旧約では貧しい人や寄留者(土地を持たない外国人)などを大事にするように勧られています(レビ19:9-10参照)。
この箇所の冒頭には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」ともあります(レビ19:2)。神様が私たち人間を愛されたように、私たちも隣人を愛することによって、聖なる者になるようにと言われています。

「愛」という言葉は、日本語では主に男女の愛を意味する言葉だったそうです。キリシタン時代には聖書の愛を「ご大切」と訳しました。相手を思いやる行いのことです。
私たちにとって隣人とは誰のことでしょうか。イエス様の御言葉にもとづいて、少しでも隣人愛を実行できるようになりたいものです。