今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2018年10月 離縁について

「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。」
(マルコによる福音書10章6節)
牧師 黒田浩史

ファリサイ派の人々がイエス様に「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねました(2節)。彼らは、当時の宗教の指導者たちでした。イエス様を試そうとして、こう訪ねたのです。

イエス様は、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました(3節)。モーセは旧約時代に神様から律法を授かり、人々にそれを教えた人物です。

彼らは、「モーセは離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました(4節)。

イエス様は言われました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(5-9節)

 

旧約の創世記には、天地創造の個所で「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」とあります(創世記1:27)。そして、神様は最初の人(男)を創造されると、彼に合う助ける者として女を造られました(創世記2:22)。

イエス様は「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われましたが、創世記には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と書いてあります(創世記2:24)。

 

家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねました。イエス様は「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」と言われました(10-12節)。

 

離縁については、パウロは次のようにも書いています。「信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」(一コリント7:15)。

2018年9月 人の内側の汚れ

「人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7章20節)
牧師 黒田浩史

当時の宗教の指導者であるファリサイ派の人々と律法学者たちが、イエス様のことを非難しました。彼らは、イエス様の弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見て、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」とイエス様に尋ねました(5節)。
ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしませんでした。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんありました(3-4節参照)。

そこでイエス様は彼らに、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言われました(8節)。「人間の言い伝え」とは、聖書には記されていませんが、後の時代に付け加えられた掟のことで、上記のように昔から受け継いでファリサイ派の人々をはじめユダヤ人が固く守っている掟がたくさんありました。
これに対し「神の掟」は、神様が私たち人間に守るようにと教えておられる掟のことです。神様は旧約時代に民の指導者モーセを通して、数々の掟をお与えになりました。これらの掟を民に教える前にモーセは、「今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」と言いました(申命記4:1参照)。神様が与えられる掟を守るならば、神様が豊かな恵みを与えてくださるというのです。
これらの掟こそ大事ですから、イエス様は後の時代に付け加えられた掟は守らなくてもいいと仰せになったのです。食べ物に関する掟についても、守らなくていいと考えておられたと言われています(15節参照)。

そして、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」、「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである」と仰せになりました(20-23節)。
心の中の悪い思いを取り除き、良い思いが言葉や行いとなって外に出て来るようになりたいものです。

2018年8月 永遠の命の食べ物

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6章27節)
牧師 黒田浩史

イエス様は、五つのパンと二匹の魚を増やして五千人に食べ物を与えられました(1-15節)。その後、湖の向こう岸のカファルナウムへ行かれました(16-21節)。パンを食べた群衆は、イエス様を捜し求めてカファルナウムに来ました(24節)。

イエス様は群衆に「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と仰せになりました(26-27節)。
すると群衆は、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました(28節)。イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになりました(29節)。
「神がお遣わしになった者」とはイエス様のことですから、イエス様を信じることが、神の業であるという意味です。

イエス様を信じることは、心の中で信じるだけでなく、イエス様と共に歩むことでもあります。イエス様はこの後で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と仰せになりました(54節)。聖餐のパンとぶどう酒のことを意味しています。しかし、弟子たちの多くの者はこれを聞いて「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました(60節)。そして、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエス様と共に歩まなくなりました(66節)。
彼らはイエス様を信じることができずに、イエス様から離れ去ったのですが、イエス様を信じるということは、イエス様と共に歩むことを意味しています。

イエス様は十二人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と言われました(67節)。すると、弟子の一人であるペトロは「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と言いました(68節)。
私たちもイエス様は永遠の命を与えてくださる方であると信じて、聖書の御言葉を聴き、聖餐のパンとぶどう酒にあずかり、イエス様と共に歩んで、永遠の命を生きる者とされましょう。

2018年7月 信仰による救い

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」 (マルコによる福音書5章34節より)
牧師 黒田浩史

イエス様によって病気をいやしてもらった女性と、死んだ娘を生き返らせてもらった男性が登場します。

病気をいやしてもらった女性は、12年間も出血が止まらず、多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけでした。しかし、イエス様が近くにやって来られたので、そのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。
すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じました。
イエス様は、自分の内から力が出て行ったことに気づき、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言われました。女性は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。
当時は、出血している女性は汚れていると見做され、一般の人に近づくことも禁じられていました。そして、他人の服に触れてその力をもらうことは、その人から力を盗み取るような行為と思われていました。
ところがイエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と仰せになりました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と信じてイエス様にお願いしたことを、高く評価されたのです。

死んだ娘を生き返らせてもらった男性は、会堂長であり、社会的地位の高い人でした。にもかかわらず、人目を気にせずにイエス様の足もとにひれ伏し、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください」とお願いしました。この方ならいやしてくださると信じてお願いしたのです。
彼の娘は、イエス様が家に到着する前に亡くなりました。しかしイエス様は、子供の手を取って「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味のことを仰せになりました。すると、少女はすぐに起き上がり、歩き出しました。イエス様は、死んだ人をも生き返らせる力を持っておられるのです。

この方を信じる人は、死んでも生きるのです。生きていてこの方を信じる人はだれも、決して死ぬことはないのです。このことを信じましょう(ヨハネ11:25-26参照)。

2018年6月 人のための律法

安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。(マルコによる福音書3章4節)
牧師 黒田浩史

安息日についての御言葉です。旧約の律法には、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と書いてあります(申命記5:13-14)。
しかしイエス様の弟子たちは、安息日に麦の穂を摘みました(マルコ2:23-28)。イエス様ご自身も、安息日に片手の萎えた人の病気をいやされました(同3:1-6)。前者は収穫の仕事、後者は医療の仕事であると見做されていたので、安息日の掟を破ったとして、イエス様を非難する人々がいました。

そこでイエス様は、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と仰せになりました(同3:4)。当時の人々は、律法を形式的には守っていましたが、その本当の意味を見失っていたのです。

安息日の意味は、次のように書いてあります。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。神様の救いの御業を思い起こして感謝することこそ、安息日の本当の意味です。そのために仕事を手を休めるのです。

ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、イエス様の十字架と復活の後、信じた人たちはイエス様の復活された「週の始めの日」すなわち日曜日を「主の日」と呼んで、イエス様の復活を思い起こして感謝をささげる日としました。曜日やその意味合いは変わりましたが、私たちは主の日に礼拝に集い、神様の御業を思い起こして感謝をささげます。

仕事の手を休めるのは、たとえ人間が一所懸命に働いたとしても、労働の実りを与えてくださるのは神様であることを思い起こすためでもあります。
人間の努力や働きの背後で働いてくださる神様に信頼して、日曜日には礼拝に集い御言葉を聴いて、神様の御業に感謝をささげましょう。

2018年5月 愛の掟

あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。(ヨハネによる福音書15章10節より)
牧師 黒田浩史

イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5節)、「わたしにつながっていなさい」(4節)と仰せになりました。主日礼拝に集うことによって、私たちはイエス様とつながります。
そしてイエス様は「あながたがも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とも仰せになりました(10節)。イエス様の掟とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」との掟です(12節)。この掟を守ることによっても、私たちはイエス様とつながることができます。

イエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とも仰せになりました(ヨハネ13:35)。弟子たちが互いに愛し合う姿を見て、まだ信じていない人たちがイエス様を信じるようになるというのです。
使徒言行録には、初期の教会の様子が記されています。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」とあります(使徒言行録4:32-33)。イエス様の復活を信じた人たちが、その教えに従い、互いに愛し合っている姿を見て、まだ信じていない人たちが信じて教会に加わってきたのです。「弟子の数はエルサレムで非常に増えていった」とあります(使徒言行録6:7)。

この掟の前半では、「わたしがあたがたがを愛したように」と言われています。イエス様が私たちに数多くの恵みを注いでくださり、特に十字架の上で私たちの罪の赦しのために苦しんでその命を献げてくださったことを意味しています。
私たちはまずは、自分の罪の大きさを思い、心から悔い改める必要があります。そして、イエス様が自分に対して、さまざまな形で愛を示してくださったことを思い起こす必要があります。

イエス様の愛を感じ、これに心から感謝して、私たちも互いに愛し合う者となれるように、ペンテコステ(聖霊降臨祭)を迎えるこの季節、聖霊の恵みを切に願い求めましょう。

2018年4月 見ないで信じる

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)

牧師 黒田浩史

イエス様が十字架に掛けられて殺された翌々日、ユダヤの安息日の次の日の朝のことでした。女性の弟子たちが墓へ行ってみると、墓の入り口の石はわきへ転がしてありました。白い長い衣を来た若者が右手に座っていて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言いました(マルコ16:1-7参照)。
イエス様が予告されていたとおり、三日目に復活されたのです。

イエス様が復活された日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていました。そこへ、イエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
弟子たちが集まっている姿は、信じる人たちが主の日の礼拝に集う姿を表しています。復活のイエス様は、礼拝共同体の真ん中に来てくださり、平和を与えてくださるのです。

弟子の一人であるトマスは、イエス様が来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。そのため、トマスはイエス様の復活を信じることができませんでした。しかし八日の後、弟子たちが再び集まっていたところへ、復活のイエス様は再び来てくださいました。
トマスはイエス様の復活を信じました。イエス様の体を目で見たから信じたように思われるかもしれませんが、イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである」と仰せになりました。トマスは今度は、他の弟子たちと一緒にいたから信じることができたのです。

私たちの場合も、信じる人たちが集っている礼拝共同体の中において、復活のイエス様と出会い、イエス様の復活を信じるようにされます。
復活されたイエス様のお体は天に上げられましたが(使徒言行録1:6-11参照)、地上にいる私たちは聖霊の働きによって、復活のイエス様とお会いし、信じることができるのです。
聖霊が私たち一人一人の上に豊かに降ることを切に願い求め、復活を信じる信仰が強められるよう祈りましょう。

2018年3月 神の不変の愛

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 (ヨハネによる福音書2章19節)

牧師 黒田浩史

イエス様が神殿を清められた場面です。神殿と言っても、エルサレムの神殿の建物ではなく、その境内での話です。
礼拝しに来た人たちが献げるための羊や鳩などの動物を追い出し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と仰せになりました(16節)。

これを見た人々は憤り、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました(18節)。
するとイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と仰せになりました(19節)。エルサレムの神殿は、この40年程後に実際にローマによって壊されてしまいました。イエス様は、そのことを前もって仰せになったのです。

それと同時に、イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでした。この後、十字架に掛けられて殺され、三日目に復活することを仰せになっていたのです。

聖書では、他にも神殿について言われている箇所があります。みだらな行いをする人たちに対し、それを止めるように勧めている箇所で、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と言われています(一コリント6:19)。
イエス様の体が神殿であると言われていたように、私たちの体も同じように神殿とされています。
神殿は、神様が宿る場所ないし建物と考えられていました。同じように、神殿とされた私たちの体には、神様が宿ってくださるのです。
イエス様も、「父(なる神)とわたしとはその人(イエス様を愛する人)のところに行き、一緒に住む」と言われていました(ヨハネ14:23)。これは聖霊の働きです。

しかし、イエス様を信じた人は、瞬時にしてその体が神殿になるのではありません。地上における苦しいことや辛いことを経て、少しずつ復活の命にあずかり、時間を掛けて神殿とされていくのです。
それは同時に、イエス様の復活の命を、今地上で生きながら、少しずつ生き始めていることでもあります。

十字架は、体が壊されるだけではありません。イエス様の十字架は、精神的な苦痛も激しかったと言われています。私たちも他者のために生きようとすると、辛いことがあります。そんなときは、私たちの心が壊されて、イエス様の十字架の姿に近づいているのです。
これまでの悩みや苦労の一つ一つを思い起こして、イエス様の十字架の姿と一体にされていることを思い、少しでも聖霊の宿ってくださる神殿に近づいていきたいものです。

2018年2月「心身の癒し」

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
(マルコによる福音書1章31節)

牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の方の場面です。
4人の漁師たちが、イエス様と出会って弟子になりました。そのうちの一人、ペトロの家での出来事です。
ペトロのしゅうとめが、熱を出して寝ていました。そこへイエス様がやって来られ、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。

ここでの病気は、人間の外からやって来てその人を苦しめる存在として登場しています。しかしイエス様は、そうした悪の力を追い出し、人間本来の姿を回復してくださいました。
その姿は、一同をもてなした姿、すなわち人に仕える姿です。「もてなす」と訳されている語の原語は、「食事の席で給仕する」という意味の語です。イエス様ご自身も、弟子たちの足を洗いましたが、これは元来は召使や奴隷のする仕事でした(ヨハネ13:1-11参照)。
「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」とも仰せになっていました(マルコ10:45参照)。

これは、愛の業でもあります。見返りを求めない愛であり、見返りを与えてくれない人に対する愛の業です。それは、一方向的な愛です。
私たちは、互いに心を通い合わせることのできる愛を求めがちですが、それは見返りのある愛でもあります。しかし、イエス様の愛は、見返りがあっても無くても行う愛でした。

最初にイエス様の弟子になった4人は、仕事道具や父親をその場に残して、イエス様に従いました(マルコ1:16-20)。物を捨てるだけでなく、執着を捨ててイエス様に従ったのです。
見返りを求める気持ちも、一つの執着です。「この人に好かれたい」というような思いです。
しかし、見返りを与えてくれない人への愛は、「この人から大事に思われても別に嬉しいとは思わない」という人を大事にしたり、思いやる愛です。

別の箇所でイエス様は、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と仰せになりました。この人たちは、お返しができない人たちだからだというのです。お返し、すなわち見返りを与えてくれない人に対する愛の業を勧められたのです(ルカ14:12-14)。
イエス様を信じ、イエス様に従う私たちも、人に対する執着を捨てて、見返りを求めない愛を実践していきましょう。

2018年1月「暗闇に輝く光」

「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
(ルカによる福音書1章78-79節)

牧師 黒田浩史

クリスマスは、救い主イエス様のご降誕のお祝いの日です。しかし12月25日は、史実としてのイエス様の誕生日ではありません。4世紀にキリスト教がローマ帝国に広がったとき、ローマの太陽のお祭りを、イエス様の誕生の記念日と定めたのです。12月25日は、この時代のローマでは冬至の日付でした。昼の時間が最も短くなる日です。この日を境にして、太陽は輝きを増していきますから、太陽を神のように崇めていた当時の人々は、太陽の光がもっと強くなってもらいたいという願いを込めてお祭りをしたのでしょう。キリスト教会は、イエス・キリストこそまことの太陽であると解釈し、元来は異教的なお祭りであったものを、キリスト教の中に取り入れたのです。

現代の暦では、2017年の冬至は12月22日だったそうです。これから春に向かって、昼の時間が少しずつ長くなっていきます。

しかし、気温はすぐには上がらず、1月から2月にかけて、気温は低くなっていきます。春の陽気が訪れるには、もう少し時間が掛かります。

すぐにではなく時間が掛かるという点は、神様の救いの御業に似ています。イエス様がお生まれになったのは、およそ二千年前ですが、ローマという外国に占領され、ヘロデ王という残忍な王様が支配していた暗い時代でした。イエス様が宣教活動を開始し、病気の人を癒したり、慰めの御言葉を語ったりされるには、あと30年くらい待たなくてはなりませんでした。

神様は現代の私たちに対しても、数々の恵みを注いで心に掛けてくださっていますが、その神様の御業が効果を発揮するのも、今すぐにではなく、やはり時間が掛かるのです。しかし、目に見えて物事が良くなったり、悩みが解決したりはしなくても、神様の恵みの御業は確実に行われます。冬至を過ぎて陽が長くなれば、やがて確実に春が訪れるのに似ています。

希望が見えないような、いわば冬至のような時代かもしれませんが、およそ二千年前にイエス様のご降誕によって始められた神様の救いの御業が、やがて必ず実現することを信じて、希望のうちに新しい年を迎えましょう。