今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2018年4月 見ないで信じる

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)

牧師 黒田浩史

イエス様が十字架に掛けられて殺された翌々日、ユダヤの安息日の次の日の朝のことでした。女性の弟子たちが墓へ行ってみると、墓の入り口の石はわきへ転がしてありました。白い長い衣を来た若者が右手に座っていて、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言いました(マルコ16:1-7参照)。
イエス様が予告されていたとおり、三日目に復活されたのです。

イエス様が復活された日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵を掛けていました。そこへ、イエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。
弟子たちが集まっている姿は、信じる人たちが主の日の礼拝に集う姿を表しています。復活のイエス様は、礼拝共同体の真ん中に来てくださり、平和を与えてくださるのです。

弟子の一人であるトマスは、イエス様が来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。そのため、トマスはイエス様の復活を信じることができませんでした。しかし八日の後、弟子たちが再び集まっていたところへ、復活のイエス様は再び来てくださいました。
トマスはイエス様の復活を信じました。イエス様の体を目で見たから信じたように思われるかもしれませんが、イエス様は「見ないのに信じる人は、幸いである」と仰せになりました。トマスは今度は、他の弟子たちと一緒にいたから信じることができたのです。

私たちの場合も、信じる人たちが集っている礼拝共同体の中において、復活のイエス様と出会い、イエス様の復活を信じるようにされます。
復活されたイエス様のお体は天に上げられましたが(使徒言行録1:6-11参照)、地上にいる私たちは聖霊の働きによって、復活のイエス様とお会いし、信じることができるのです。
聖霊が私たち一人一人の上に豊かに降ることを切に願い求め、復活を信じる信仰が強められるよう祈りましょう。

2018年3月 神の不変の愛

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 (ヨハネによる福音書2章19節)

牧師 黒田浩史

イエス様が神殿を清められた場面です。神殿と言っても、エルサレムの神殿の建物ではなく、その境内での話です。
礼拝しに来た人たちが献げるための羊や鳩などの動物を追い出し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と仰せになりました(16節)。

これを見た人々は憤り、「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました(18節)。
するとイエス様は、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と仰せになりました(19節)。エルサレムの神殿は、この40年程後に実際にローマによって壊されてしまいました。イエス様は、そのことを前もって仰せになったのです。

それと同時に、イエス様の言われる神殿とは、御自分の体のことでした。この後、十字架に掛けられて殺され、三日目に復活することを仰せになっていたのです。

聖書では、他にも神殿について言われている箇所があります。みだらな行いをする人たちに対し、それを止めるように勧めている箇所で、「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」と言われています(一コリント6:19)。
イエス様の体が神殿であると言われていたように、私たちの体も同じように神殿とされています。
神殿は、神様が宿る場所ないし建物と考えられていました。同じように、神殿とされた私たちの体には、神様が宿ってくださるのです。
イエス様も、「父(なる神)とわたしとはその人(イエス様を愛する人)のところに行き、一緒に住む」と言われていました(ヨハネ14:23)。これは聖霊の働きです。

しかし、イエス様を信じた人は、瞬時にしてその体が神殿になるのではありません。地上における苦しいことや辛いことを経て、少しずつ復活の命にあずかり、時間を掛けて神殿とされていくのです。
それは同時に、イエス様の復活の命を、今地上で生きながら、少しずつ生き始めていることでもあります。

十字架は、体が壊されるだけではありません。イエス様の十字架は、精神的な苦痛も激しかったと言われています。私たちも他者のために生きようとすると、辛いことがあります。そんなときは、私たちの心が壊されて、イエス様の十字架の姿に近づいているのです。
これまでの悩みや苦労の一つ一つを思い起こして、イエス様の十字架の姿と一体にされていることを思い、少しでも聖霊の宿ってくださる神殿に近づいていきたいものです。

2018年2月「心身の癒し」

イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
(マルコによる福音書1章31節)

牧師 黒田浩史

イエス様の宣教活動の最初の方の場面です。
4人の漁師たちが、イエス様と出会って弟子になりました。そのうちの一人、ペトロの家での出来事です。
ペトロのしゅうとめが、熱を出して寝ていました。そこへイエス様がやって来られ、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなしました。

ここでの病気は、人間の外からやって来てその人を苦しめる存在として登場しています。しかしイエス様は、そうした悪の力を追い出し、人間本来の姿を回復してくださいました。
その姿は、一同をもてなした姿、すなわち人に仕える姿です。「もてなす」と訳されている語の原語は、「食事の席で給仕する」という意味の語です。イエス様ご自身も、弟子たちの足を洗いましたが、これは元来は召使や奴隷のする仕事でした(ヨハネ13:1-11参照)。
「わたしは仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」とも仰せになっていました(マルコ10:45参照)。

これは、愛の業でもあります。見返りを求めない愛であり、見返りを与えてくれない人に対する愛の業です。それは、一方向的な愛です。
私たちは、互いに心を通い合わせることのできる愛を求めがちですが、それは見返りのある愛でもあります。しかし、イエス様の愛は、見返りがあっても無くても行う愛でした。

最初にイエス様の弟子になった4人は、仕事道具や父親をその場に残して、イエス様に従いました(マルコ1:16-20)。物を捨てるだけでなく、執着を捨ててイエス様に従ったのです。
見返りを求める気持ちも、一つの執着です。「この人に好かれたい」というような思いです。
しかし、見返りを与えてくれない人への愛は、「この人から大事に思われても別に嬉しいとは思わない」という人を大事にしたり、思いやる愛です。

別の箇所でイエス様は、「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と仰せになりました。この人たちは、お返しができない人たちだからだというのです。お返し、すなわち見返りを与えてくれない人に対する愛の業を勧められたのです(ルカ14:12-14)。
イエス様を信じ、イエス様に従う私たちも、人に対する執着を捨てて、見返りを求めない愛を実践していきましょう。

2018年1月「暗闇に輝く光」

「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
(ルカによる福音書1章78-79節)

牧師 黒田浩史

クリスマスは、救い主イエス様のご降誕のお祝いの日です。しかし12月25日は、史実としてのイエス様の誕生日ではありません。4世紀にキリスト教がローマ帝国に広がったとき、ローマの太陽のお祭りを、イエス様の誕生の記念日と定めたのです。12月25日は、この時代のローマでは冬至の日付でした。昼の時間が最も短くなる日です。この日を境にして、太陽は輝きを増していきますから、太陽を神のように崇めていた当時の人々は、太陽の光がもっと強くなってもらいたいという願いを込めてお祭りをしたのでしょう。キリスト教会は、イエス・キリストこそまことの太陽であると解釈し、元来は異教的なお祭りであったものを、キリスト教の中に取り入れたのです。

現代の暦では、2017年の冬至は12月22日だったそうです。これから春に向かって、昼の時間が少しずつ長くなっていきます。

しかし、気温はすぐには上がらず、1月から2月にかけて、気温は低くなっていきます。春の陽気が訪れるには、もう少し時間が掛かります。

すぐにではなく時間が掛かるという点は、神様の救いの御業に似ています。イエス様がお生まれになったのは、およそ二千年前ですが、ローマという外国に占領され、ヘロデ王という残忍な王様が支配していた暗い時代でした。イエス様が宣教活動を開始し、病気の人を癒したり、慰めの御言葉を語ったりされるには、あと30年くらい待たなくてはなりませんでした。

神様は現代の私たちに対しても、数々の恵みを注いで心に掛けてくださっていますが、その神様の御業が効果を発揮するのも、今すぐにではなく、やはり時間が掛かるのです。しかし、目に見えて物事が良くなったり、悩みが解決したりはしなくても、神様の恵みの御業は確実に行われます。冬至を過ぎて陽が長くなれば、やがて確実に春が訪れるのに似ています。

希望が見えないような、いわば冬至のような時代かもしれませんが、およそ二千年前にイエス様のご降誕によって始められた神様の救いの御業が、やがて必ず実現することを信じて、希望のうちに新しい年を迎えましょう。

2017年12月「目覚めて待つ」

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

(マルコによる福音書13章33節)

牧師 黒 田 浩 史

教会の暦の一年は、待降節から始まります。11月30日に最も近い主日(日曜日)からクリスマスイヴ(12月24日)までの約4週間で、最も早い年で11月27日、遅い年でも12月3日に始まります。待降節には、二重の性格があり、一つは御子イエス様のご降誕のお祝いであるクリスマスの準備の季節という性格です。もう一つは、イエス様の第二の到来である終末における再臨へと心を向ける季節という性格です。

イエス様の再臨へと心を向けるということで、イエス様は「目を覚ましていなさい」と仰せになりました(マルコ12:33)。肉体的にずっと眠らないという意味ではなく、地上の生涯において与えられた務めを忠実に果たしなさい、という意味です。

この御言葉は、イエス様が十字架に掛けられる直前、エルサレムの神殿の境内で教えておられたときに語られました。神殿の境内では、金持ちたちが有り余る中から献金していたのに対し、貧しいやもめが生活費全部を献金した姿をご覧になり、このやもめの信仰を褒めておられました(12:41-44)。一方、弟子たちは神殿の建物の大きさや豪華さに目を奪われ、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感激していました。しかしイエス様は、神殿の破壊を予告し、神殿には貧しいやもめの信仰以外には見るべきものは何もないかのようにして、境内を立ち去られました(13:1-2)。そして、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と仰せになり(13:31)、物質的なものはどんなに立派であっても滅びることを教えられました。

その教えに続いて語られたのが、「目を覚ましていなさい」との御言葉です。主人が旅に出かけた僕たちの譬えを語られ、主人が留守の間でも、与えられた務めを忠実に果たすようにと仰せになりました(13:32-37)。主人が留守なので、主人が見ていないからといって、怠けたり悪いことを行ってもいいと考えるのは愚かなことだと仰せになります。譬えでは、主人は神様のことなのですが、人間の主人と同じように考えてしてしまい、見ていないところでは何をしてもいいと考えてしまったのです。しかし、人間からの評価も、天地と共にやがて滅びます。これに対し、神様からの評価はいつまでも残るものであり、これを求めて生きるべきなのです。

クリスマスを迎えようとするこの季節、生活費全部を献げた貧しいやもめのように、神様から評価していただける生き方を求めたいものです。

2017年11月「悪いお手本」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 」

                                                                                                 (マタイによる福音書23章12節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、当時の宗教的指導者たちの偽善を指摘しました。偽善とは、日本語でも「偽の善」と書くように、偽物の善人、すなわち本当は善人ではないのに、そう見せかけている人のことです。

偽善者の特徴の一つは、他人を裁くことです。しかしイエス様は、悔い改める罪人には優しい方ですが、他人を裁く人に対しては厳しい方です。宗教的指導者だけでなく、普通の人でも、他人を裁いて偽善者になってしまう危険があります。

イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と仰せになりました(マタイ7:1)。また、姦通の現場で捕らえられた女性に対し、今にも石を投げて死刑にしようとしている人たちに向かい、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とも仰せになりました(ヨハネ8:1-11参照)。

偽善者は、人々に見せている立派な自分と、現実の罪深い自分との間のギャップが大きい人です。しかしクリスチャンは、常に神様の前に立っていますから、このギャップは小さく、人格の一貫性を保つことができます。

イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰せになりました(マタイ23:12)。「へりくだる」は、神様の前に自分を低くすることですが、そうして低くなった同じ自分のままで、人にも接するのです。神様の前と人の前とで、別の顔になる必要はありません。

「高められる」の「高める」は、イエス様の復活をも意味しています。へりくだった人は、イエス様の十字架によって罪を赦され、その復活によって天にまで高められるのです。その心は神様のような心に高められ、もはや他人を裁くこともなくなり、愛や慈しみに生きる人となります。

イエス様を信じて、心や人格の一貫性を与えられ、神様のような心、イエス様のような心で人に接することができるよう願いたいと思います。

2017年10月「心の方向転換」

「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

(マタイによる福音書21章31節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の譬え話です。

「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21:28-31)

ポイントは、後で考え直したかどうかです。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの教えを聴いて悔い改めました。ここでは、兄のほうに譬えられています。ところが、当時の宗教的指導者たちは、ヨハネを信じようとしませんでした。ここでは、弟の方に譬えられていて、イエス様は彼らを咎めておられます。

しかしよく考えてみると、「いやです」と答えた兄は、とても正直な人だったのでしょう。昔のことですから、父親の言いつけは、そう簡単には断れなかったはずです。誰しも楽をしたいものです。自分の本当の気持ちを素直に言えた兄の姿は、私たちも神に対しては素直になり、ありのままの姿でいいことを表しています。

けれども、そうした素直な気持ちの中に同時に、父親の役に立ちたいという思いも存在していました。一人の人間の心の中に、二つの思いが同時に存在しているのです。兄はその素直な気持ちに従い、後で考え直してぶどう園に出掛けたのでした。

では、イエス様と出会った私たちの本当の気持ちとは、いったいどういう気持ちでしょうか。イエス様は、十字架に掛かり復活された方です。十字架は辛くて苦しいものですから、誰しも避けたいと思います。しかし同時に、イエス様の貧しくへりくだった姿や、人のために生きる姿にも、私たちは心を惹かれるのではないでしょうか。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と聖書は語っています(一コリント1:18)。イエス様の十字架の姿に心を惹かれ、その後に従う私たちには、神の力すなわち復活の力が与えられます。この世でどんなに困難や辛いことがあっても、神様の力によってこれらを乗り越えていくことができるのです。

2017年9月「死を越えて」

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

(マタイによる福音書16章25節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様がご自分の十字架と復活の予告をされた場面です。

弟子のペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました(22節)。後に教会の指導者となったペトロですが、まだ十字架と復活のことは分かっていなかったのです。当時は多くの人々が、メシア(救い主)の到来を期待していました。この時代のメシアのイメージは、政治的な指導者としてローマからユダヤを解放し、独立国家を築いてくれるような人物でした。

そこでイエス様は、私たちも王様のようになって全世界を手に入れたいのか、それともイエス様に倣って真の命を得たいのかの選択を迫られました(25-26節参照)。全世界まで欲しいと思う人は稀としても、自分の小さな世界の中で自分の思い通りにしたいと願う人は多いです。けれども、イエス様を信じてこの方に従うことは、その姿に倣い、十字架の道を歩むことです。イエス様は私たちに対しても、どちらを選ぶか問うておられるのです。「私は一体何を求めて教会へやって来たのだろう」と自分自身に問うてみる必要があります。世間的な成功などではなく、やはりイエス様に倣って愛や赦しに生きる人間になりたいと願って信仰に入ったのではないでしょうか。

そのような私たちに対してイエス様は、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになります(24節)。「自分の十字架」とは、文字通り十字架の上で殺されることというより、精神的な苦痛を忍ぶという意味もあります。十字架刑は、肉体的な苦痛と同時に、精神的な苦痛も相当激しかったと言われています。大勢の人たちが見ている前で、侮辱されつつ、苦しみながら死んでいくからです。

それゆえ、イエス様に倣う際の精神的な苦痛とは、屈辱を忍ぶこと、へりくだって頭を下げること、嘘の悪口に耐えることなどです。この世では何の見返りもなく、ただ辛いだけのように見えるかもしれませんが、イエス様の姿と同じような姿になるとき、真の命を生きていることになるのです。特に、人をかばうためなど、他者のためにこうした苦痛を忍ぶならば、まさにイエス様と同じ姿になっています。

「私は人から馬鹿にされてもいいです。イエス様と同じ姿になりたくて信仰に入ったのですから」と言えるようになりたいものです。

2017年8月「パンと魚の奇跡」

「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」

(マタイによる福音書14章19節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様が五つのパンと二匹の魚を増やす奇跡を行われ、大勢の人々が食べて満腹した場面です。「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)という動作が特徴的です。これは、後に聖餐を制定されたときと同じ動作です(マタイ26:26参照)。このことから、この場面は聖餐とも深い関係があります。

聖餐は、現代の教会では礼拝の中の儀式の一部として、僅かのパンだけ食べ、僅かのぶどう酒だけ飲んでいます。今日の場面は本物の食事ですが、聖餐の本質を良く表しています。すなわち、全くの恵みとして与えられているということです。お腹の空いた人が食べて満腹すれば、恵みの実感もとても大きかったことでしょう。

聖餐のパンとぶどう酒を通して、イエス様ご自身が私たちの中に入って来てくださいます。その恵みは、本物の食事の場合と同じように体で感じ、感謝の気持ちに満たされます。

食べ物は、動物にしろ植物にしろ神様が造られた命ですから、これらを食べる時、私たちの体の中に神様の命が入ってきます。同じように、聖餐のパンを食べぶどう酒を飲む時、私たちの心と体の中にイエス様の約束された永遠の命が入ってくるのです。地上の朽ちる命と永遠の命とでは、質が違いますが、同じく神様に由来する命です。私たちは食事の時に神様の命をいただき、御言葉と聖餐を通して永遠の命をいただいているのです。御言葉と聖餐とは一体のものです。

「命」という語は、聖書の原語では、英語のlifeなどもそうですが、「人生」や「生涯」をも意味する語です。御言葉と聖餐を通してイエス様の命が私たちの中に入って来ます。それゆえ、これにあずかる人の生き方は、イエス様の生き方に似てくるのです。「仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」と仰せになるイエス様の生き方です(マタイ20:28参照)。

イエス様の十字架と復活を信じる私たちは、ますます熱心に御言葉に耳を傾け、頻繁に聖餐にあずかり、少しでもそのお姿に近づいていきたいものです。

2017年7月「自分の十字架」

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

(マタイによる福音書10章39節)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の十字架と復活の予告のようなお言葉です。本格的な予告は、この後に出てきます(マタイ16:21-28)。

こうした予告をされた理由は、弟子たちの中には、イエス様が地上の王様になることを期待してた人もいたからです。そうすれば、自分にもお金や権力が与えられると思い、いわゆる現世ご利益を求めていたのです。

そこでイエス様は、自分の家族よりもイエス様のほうを愛しなさい、と仰せになります。ここでの「愛する」は、大事にするという意味です。というのも、当時の社会は、警察などもないので、家族や親族を頼って生きるしかありませんでした。現代でも中東などでは、警察よりも親族の方が頼りになるそうです。家族ないし親族を大事にすることは、すなわち自分を大事にし、自分の財産や利権を守ることを意味していました。

けれども、自分だけを大事にしようとする人は、結局は自分の命をも失ってしまう、と仰せになります。なぜなら、イエス様のように他者のために生きるときはじめて、私たちは本当に自分の命を得ることになるからです。その命は、この世での命というより、地上の生涯が終わってから、いわゆる天国における命を意味しています。というのも、聖書では、イエス様を信じて労苦を耐え忍んだ人に対して、「天には大きな報いがある」と約束されているからです(マタイ5:12)。

と同時に、イエス様は地上においても報いを約束されました。全てを捨ててイエス様に従って来た弟子たちに対し、天国において永遠の命を受けるだけでなく、「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け」ると仰せになりました(マルコ10:30)。

「百倍」とは、桁が違うという意味が込められています。私たち人間の想像や予想を遥かに超えて素晴らしい恵みを、神様は与えてくださるのです。そして、この世の生涯が終わってからは「永遠」ですから、更に桁の違う、ないし次元の違う恵みをいただけるということでしょう。

イエス様の時代は、ユダヤの国はローマという外国に占領されていました。ローマによる傀儡政権であるヘロデ王などもいましたが、政変が続き、弱くて無力な一般の人々は、社会の急激な変化に翻弄されていました。自分の願いなど何一つ実現しない時代でした。しかし、その中でイエス様は十字架の道を歩まれ、人々のため、すなわち私たちのために自分の命をささげてくださいました。

信じる私たちも、自分の十字架を背負って従うよう招かれています。十字架というと大げさに聞こえますが、他者のために自分にできる小さなことを行うのです。ちょっと笑顔で挨拶するとか、この国や地域社会に住む人たちの安全を祈るとか、できることはいろいろあります。この世では百倍、そして後の世では永遠の命が与えられる約束を信じて、イエス様の姿に倣って歩みましょう。