今月のメッセージ」カテゴリーアーカイブ

2017年12月「目覚めて待つ」

「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」

(マルコによる福音書13章33節)

牧師 黒 田 浩 史

教会の暦の一年は、待降節から始まります。11月30日に最も近い主日(日曜日)からクリスマスイヴ(12月24日)までの約4週間で、最も早い年で11月27日、遅い年でも12月3日に始まります。待降節には、二重の性格があり、一つは御子イエス様のご降誕のお祝いであるクリスマスの準備の季節という性格です。もう一つは、イエス様の第二の到来である終末における再臨へと心を向ける季節という性格です。

イエス様の再臨へと心を向けるということで、イエス様は「目を覚ましていなさい」と仰せになりました(マルコ12:33)。肉体的にずっと眠らないという意味ではなく、地上の生涯において与えられた務めを忠実に果たしなさい、という意味です。

この御言葉は、イエス様が十字架に掛けられる直前、エルサレムの神殿の境内で教えておられたときに語られました。神殿の境内では、金持ちたちが有り余る中から献金していたのに対し、貧しいやもめが生活費全部を献金した姿をご覧になり、このやもめの信仰を褒めておられました(12:41-44)。一方、弟子たちは神殿の建物の大きさや豪華さに目を奪われ、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感激していました。しかしイエス様は、神殿の破壊を予告し、神殿には貧しいやもめの信仰以外には見るべきものは何もないかのようにして、境内を立ち去られました(13:1-2)。そして、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と仰せになり(13:31)、物質的なものはどんなに立派であっても滅びることを教えられました。

その教えに続いて語られたのが、「目を覚ましていなさい」との御言葉です。主人が旅に出かけた僕たちの譬えを語られ、主人が留守の間でも、与えられた務めを忠実に果たすようにと仰せになりました(13:32-37)。主人が留守なので、主人が見ていないからといって、怠けたり悪いことを行ってもいいと考えるのは愚かなことだと仰せになります。譬えでは、主人は神様のことなのですが、人間の主人と同じように考えてしてしまい、見ていないところでは何をしてもいいと考えてしまったのです。しかし、人間からの評価も、天地と共にやがて滅びます。これに対し、神様からの評価はいつまでも残るものであり、これを求めて生きるべきなのです。

クリスマスを迎えようとするこの季節、生活費全部を献げた貧しいやもめのように、神様から評価していただける生き方を求めたいものです。

2017年11月「悪いお手本」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。 」

                                                                                                 (マタイによる福音書23章12節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様は、当時の宗教的指導者たちの偽善を指摘しました。偽善とは、日本語でも「偽の善」と書くように、偽物の善人、すなわち本当は善人ではないのに、そう見せかけている人のことです。

偽善者の特徴の一つは、他人を裁くことです。しかしイエス様は、悔い改める罪人には優しい方ですが、他人を裁く人に対しては厳しい方です。宗教的指導者だけでなく、普通の人でも、他人を裁いて偽善者になってしまう危険があります。

イエス様は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」と仰せになりました(マタイ7:1)。また、姦通の現場で捕らえられた女性に対し、今にも石を投げて死刑にしようとしている人たちに向かい、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」とも仰せになりました(ヨハネ8:1-11参照)。

偽善者は、人々に見せている立派な自分と、現実の罪深い自分との間のギャップが大きい人です。しかしクリスチャンは、常に神様の前に立っていますから、このギャップは小さく、人格の一貫性を保つことができます。

イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰せになりました(マタイ23:12)。「へりくだる」は、神様の前に自分を低くすることですが、そうして低くなった同じ自分のままで、人にも接するのです。神様の前と人の前とで、別の顔になる必要はありません。

「高められる」の「高める」は、イエス様の復活をも意味しています。へりくだった人は、イエス様の十字架によって罪を赦され、その復活によって天にまで高められるのです。その心は神様のような心に高められ、もはや他人を裁くこともなくなり、愛や慈しみに生きる人となります。

イエス様を信じて、心や人格の一貫性を与えられ、神様のような心、イエス様のような心で人に接することができるよう願いたいと思います。

2017年10月「心の方向転換」

「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

(マタイによる福音書21章31節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の譬え話です。

「ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」(マタイ21:28-31)

ポイントは、後で考え直したかどうかです。徴税人や娼婦たちは、洗礼者ヨハネの教えを聴いて悔い改めました。ここでは、兄のほうに譬えられています。ところが、当時の宗教的指導者たちは、ヨハネを信じようとしませんでした。ここでは、弟の方に譬えられていて、イエス様は彼らを咎めておられます。

しかしよく考えてみると、「いやです」と答えた兄は、とても正直な人だったのでしょう。昔のことですから、父親の言いつけは、そう簡単には断れなかったはずです。誰しも楽をしたいものです。自分の本当の気持ちを素直に言えた兄の姿は、私たちも神に対しては素直になり、ありのままの姿でいいことを表しています。

けれども、そうした素直な気持ちの中に同時に、父親の役に立ちたいという思いも存在していました。一人の人間の心の中に、二つの思いが同時に存在しているのです。兄はその素直な気持ちに従い、後で考え直してぶどう園に出掛けたのでした。

では、イエス様と出会った私たちの本当の気持ちとは、いったいどういう気持ちでしょうか。イエス様は、十字架に掛かり復活された方です。十字架は辛くて苦しいものですから、誰しも避けたいと思います。しかし同時に、イエス様の貧しくへりくだった姿や、人のために生きる姿にも、私たちは心を惹かれるのではないでしょうか。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と聖書は語っています(一コリント1:18)。イエス様の十字架の姿に心を惹かれ、その後に従う私たちには、神の力すなわち復活の力が与えられます。この世でどんなに困難や辛いことがあっても、神様の力によってこれらを乗り越えていくことができるのです。

2017年9月「死を越えて」

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」

(マタイによる福音書16章25節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様がご自分の十字架と復活の予告をされた場面です。

弟子のペトロは「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました(22節)。後に教会の指導者となったペトロですが、まだ十字架と復活のことは分かっていなかったのです。当時は多くの人々が、メシア(救い主)の到来を期待していました。この時代のメシアのイメージは、政治的な指導者としてローマからユダヤを解放し、独立国家を築いてくれるような人物でした。

そこでイエス様は、私たちも王様のようになって全世界を手に入れたいのか、それともイエス様に倣って真の命を得たいのかの選択を迫られました(25-26節参照)。全世界まで欲しいと思う人は稀としても、自分の小さな世界の中で自分の思い通りにしたいと願う人は多いです。けれども、イエス様を信じてこの方に従うことは、その姿に倣い、十字架の道を歩むことです。イエス様は私たちに対しても、どちらを選ぶか問うておられるのです。「私は一体何を求めて教会へやって来たのだろう」と自分自身に問うてみる必要があります。世間的な成功などではなく、やはりイエス様に倣って愛や赦しに生きる人間になりたいと願って信仰に入ったのではないでしょうか。

そのような私たちに対してイエス様は、「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と仰せになります(24節)。「自分の十字架」とは、文字通り十字架の上で殺されることというより、精神的な苦痛を忍ぶという意味もあります。十字架刑は、肉体的な苦痛と同時に、精神的な苦痛も相当激しかったと言われています。大勢の人たちが見ている前で、侮辱されつつ、苦しみながら死んでいくからです。

それゆえ、イエス様に倣う際の精神的な苦痛とは、屈辱を忍ぶこと、へりくだって頭を下げること、嘘の悪口に耐えることなどです。この世では何の見返りもなく、ただ辛いだけのように見えるかもしれませんが、イエス様の姿と同じような姿になるとき、真の命を生きていることになるのです。特に、人をかばうためなど、他者のためにこうした苦痛を忍ぶならば、まさにイエス様と同じ姿になっています。

「私は人から馬鹿にされてもいいです。イエス様と同じ姿になりたくて信仰に入ったのですから」と言えるようになりたいものです。

2017年8月「パンと魚の奇跡」

「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」

(マタイによる福音書14章19節より)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様が五つのパンと二匹の魚を増やす奇跡を行われ、大勢の人々が食べて満腹した場面です。「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)という動作が特徴的です。これは、後に聖餐を制定されたときと同じ動作です(マタイ26:26参照)。このことから、この場面は聖餐とも深い関係があります。

聖餐は、現代の教会では礼拝の中の儀式の一部として、僅かのパンだけ食べ、僅かのぶどう酒だけ飲んでいます。今日の場面は本物の食事ですが、聖餐の本質を良く表しています。すなわち、全くの恵みとして与えられているということです。お腹の空いた人が食べて満腹すれば、恵みの実感もとても大きかったことでしょう。

聖餐のパンとぶどう酒を通して、イエス様ご自身が私たちの中に入って来てくださいます。その恵みは、本物の食事の場合と同じように体で感じ、感謝の気持ちに満たされます。

食べ物は、動物にしろ植物にしろ神様が造られた命ですから、これらを食べる時、私たちの体の中に神様の命が入ってきます。同じように、聖餐のパンを食べぶどう酒を飲む時、私たちの心と体の中にイエス様の約束された永遠の命が入ってくるのです。地上の朽ちる命と永遠の命とでは、質が違いますが、同じく神様に由来する命です。私たちは食事の時に神様の命をいただき、御言葉と聖餐を通して永遠の命をいただいているのです。御言葉と聖餐とは一体のものです。

「命」という語は、聖書の原語では、英語のlifeなどもそうですが、「人生」や「生涯」をも意味する語です。御言葉と聖餐を通してイエス様の命が私たちの中に入って来ます。それゆえ、これにあずかる人の生き方は、イエス様の生き方に似てくるのです。「仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」と仰せになるイエス様の生き方です(マタイ20:28参照)。

イエス様の十字架と復活を信じる私たちは、ますます熱心に御言葉に耳を傾け、頻繁に聖餐にあずかり、少しでもそのお姿に近づいていきたいものです。

2017年7月「自分の十字架」

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

(マタイによる福音書10章39節)

牧師 黒 田 浩 史

イエス様の十字架と復活の予告のようなお言葉です。本格的な予告は、この後に出てきます(マタイ16:21-28)。

こうした予告をされた理由は、弟子たちの中には、イエス様が地上の王様になることを期待してた人もいたからです。そうすれば、自分にもお金や権力が与えられると思い、いわゆる現世ご利益を求めていたのです。

そこでイエス様は、自分の家族よりもイエス様のほうを愛しなさい、と仰せになります。ここでの「愛する」は、大事にするという意味です。というのも、当時の社会は、警察などもないので、家族や親族を頼って生きるしかありませんでした。現代でも中東などでは、警察よりも親族の方が頼りになるそうです。家族ないし親族を大事にすることは、すなわち自分を大事にし、自分の財産や利権を守ることを意味していました。

けれども、自分だけを大事にしようとする人は、結局は自分の命をも失ってしまう、と仰せになります。なぜなら、イエス様のように他者のために生きるときはじめて、私たちは本当に自分の命を得ることになるからです。その命は、この世での命というより、地上の生涯が終わってから、いわゆる天国における命を意味しています。というのも、聖書では、イエス様を信じて労苦を耐え忍んだ人に対して、「天には大きな報いがある」と約束されているからです(マタイ5:12)。

と同時に、イエス様は地上においても報いを約束されました。全てを捨ててイエス様に従って来た弟子たちに対し、天国において永遠の命を受けるだけでなく、「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け」ると仰せになりました(マルコ10:30)。

「百倍」とは、桁が違うという意味が込められています。私たち人間の想像や予想を遥かに超えて素晴らしい恵みを、神様は与えてくださるのです。そして、この世の生涯が終わってからは「永遠」ですから、更に桁の違う、ないし次元の違う恵みをいただけるということでしょう。

イエス様の時代は、ユダヤの国はローマという外国に占領されていました。ローマによる傀儡政権であるヘロデ王などもいましたが、政変が続き、弱くて無力な一般の人々は、社会の急激な変化に翻弄されていました。自分の願いなど何一つ実現しない時代でした。しかし、その中でイエス様は十字架の道を歩まれ、人々のため、すなわち私たちのために自分の命をささげてくださいました。

信じる私たちも、自分の十字架を背負って従うよう招かれています。十字架というと大げさに聞こえますが、他者のために自分にできる小さなことを行うのです。ちょっと笑顔で挨拶するとか、この国や地域社会に住む人たちの安全を祈るとか、できることはいろいろあります。この世では百倍、そして後の世では永遠の命が与えられる約束を信じて、イエス様の姿に倣って歩みましょう。

2017年6月「燃える心」

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」

                                                                   (使徒言行録2章3節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様が復活されてから50日目、イエス様のお約束どおり地上に聖霊が降り、教会が誕生しました。

聖霊は、共に集って祈っていた弟子(使徒)たち一人一人の上にとどまりました(使徒言行録2:3)。この聖霊のおかげで、私たちはいつどこにいても、復活のイエス様と一緒にいることができるのです。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われているように(使徒言行録1:8)、聖霊は神様からの力です。現代人は、人間関係のトラブルやさまざまなストレスのため疲れ切っています。しかし、聖霊を受けるなら、元気を回復し、心が前向きになれるのです。

イエス様の十字架の後、弟子たちは皆、絶望していました。しかし、復活のイエス様ご自身と出会い、聖書を説明していただいたある弟子は、そのとき「心が燃えていた」とあります(ルカ24:23)。聖霊は、「炎のような舌」の姿で地上に降ったように(使徒言行録2:3)、信仰の炎を燃やす火でもあります。

聖霊を受けるための一つの方法は、イエス様が教えられたように「待つ」ことです(使徒言行録1:4参照)。聖霊は、神ご自身でもあられ、父なる神様が信じる私たちに遣わしてくださる方なので、人間の側から作り出すことはできません。願い求めて待つ必要があります。

「聖霊なる神様、私のところへ来てください」と祈るのですが、言葉は整わなくても、意識を聖霊の方へ向けるだけでも祈りになります。

逆を言えば、意識を他の物事へは向けないことでもあります。溢れる情報に振り回されていては、心を聖霊に向けることは難しいです。

生活をシンプルにするのも一つの方法です。もちろん、人間の側から聖霊をコントロールすることはできませんから、あくまでも聖霊が降りやすい環境を整えるのです。

聖霊の反対である悪霊について考えれば、分かりやすいです。人の悪口を言ったり、自分が偉いと思い込んで傲慢になったりするのは、悪霊の働きです。悪霊が取り憑きやすい環境もあります。生活が乱れていたり、お金に執着していたりすると、悪霊が入って来やすくなります。

ならば、その反対をすればいいわけです。規則正しい生活をし、健康的な食事を取り、適度な運動をするなど、ごくごく常識的なことです。日曜日には教会に通い、週日にも家で聖書を読んで祈り、愛の実践を行うなど、キリスト教で伝統的に行われてきた生活を地道に続けることです。

そうやって聖霊を豊かに受けて、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」などの聖霊の実を結べるようになりたいと思います(ガラテヤ5:22-23)。

2017年5月「良い羊飼い」

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

(ヨハネによる福音書10章10節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様のことが羊飼いに、信じる私たちのことが羊に譬えられています。

羊は弱い動物であり、自分では草や水を見つけることはできないので、羊飼いに連れて行ってもらう必要があるそうです。同じように、私たちも弱い人間なので、イエス様を見失わずに、その後について行かなくてはなりません。そうしなければ、強盗や狼に襲われてしまいます。

ここでの強盗や狼は、9章に登場するユダヤ教の指導者たちのことを意味しているとも言われています。9章では、目の見えない人が、イエス様によって見えるようにしていただきました。

しかし、この人はイエス様を信じるようになったため、ユダヤ教の指導者たちから会堂追放をされてしまいました。一種の破門です。彼らの問題点の一つは、力づくで従わせようとしたり、従わなければ会堂追放をすると脅したりする点でした。

しかし、イエス様のもとには、まことの自由がありました。弟子たちは強制されてではなく、信じること自体が喜びであったので、イエス様を信じ、その後に従って行きました。

イエス様を信じる人は、羊が羊飼いの声を知っているように、イエス様との深い交わりの中にあります。聖書の「知る」、「知っている」という言葉は、夫婦の交わりをも意味するような深い人格的な交わりを意味する言葉です。信じる私たちは、この方は掟を強制したり、私たちを支配したりされる方ではなく、この方のもとにはまことの平安や喜びがあることを、よく知っているのです。ですから、自発的にイエス様に従って行くのです。

羊飼いの役割は、強盗や狼から守るだけでなく、新鮮な草や水のあるところに連れて行くことです。「羊が豊かな命を受けるため」とあるように、信じる私たちが喜びや平安に満ちた生活を送れるようにするのが、イエス様の役割なのです。聖書の「命」には、死んでから天国で生きる「永遠の命」の意味もありますが、地上において本当に人間らしい生き方をするという意味もあります。

イエス様の声かどうかを聞き分ける一つの目安は、それが聖書で言われていることかどうかです。例えば、愛や赦し、へりくだりや節制などです。しかし、自分の欲を満たしたり、人を支配したりするのは、この世の価値観であり、羊が逃げ去るところの「ほかの者たちの声」です。

復活節のテーマは、復活のイエス様は信じる私たちといつも一緒におられるということです。これは聖霊の働きです。まことの羊飼いであるイエス様が、毎日の生活の中にも共にいてくださるよう、6月4日のペンテコステに向かって、祈り求めてまいりましょう。

2017年4月「復活を信じる」

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」

                                                                   (ヨハネによる福音書11章25節)

                       牧師 黒 田 浩 史

イエス様と出会って信じたマルタという名の女性の話です。兄弟のラザロが病気で亡くなりました。以前からイエス様と親しかったマルタは、その前に人をやって、ラザロの病気のことをイエス様に伝えました。しかし、イエス様はすぐに駆け付けたりはされず、二日間同じ場所に滞在され、その後でラザロの家に行かれました。

すぐに行かれなかった理由を、「神の栄光のためである」と仰せになりました(4節)。これは、人々がイエス様のことを信じるようになるためだという意味でした。その通りになりました。イエス様は死んだラザロを生き返らせ、これを目撃した多くの人たちは、イエス様のことを信じたのです(45節)。

けれども、イエス様に信頼していたマルタは、ラザロが生き返る前に、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とのイエス様のお言葉を信じました(27節)。マルタは、たとえどれほど悲しい出来事が起こっても、信じる人に対して神様は必ず良い方へ導いてくださることを信じたのです。

これは私たちにとっても、信仰の大前提のようなものです。神様が私たちを必ず良い方向へ導き、これまで以上に豊かな恵みを注いでくださると信じる信仰です。どんなに辛く悲しい出来事が起きようとも、神様の絶対的な恵みに信頼する信仰です。

マルタが「信じます」と答えたとき、ラザロが亡くなって四日も経っていました。人間の常識では、もはや息を吹き返すことはありえません。

けれども、人はどん底まで落ちたときに、はじめて神様に頼ろうとするものです。落ちるところまで落ちたなら、僅か1センチでも2センチでもいいから、上へ這い上がろうとします。上から下へ落ちて、今度は下から上へ這い上がる。これは一般的な言い方です。

聖書は「過ぎ越す」という言葉を使います。死を過ぎ越して(通り過ぎて)、復活の命に至るのです。その意味で、死は一時的な通過点にすぎません。一時的とはいっても、イエス様の十字架は大変苦しいものでした。「過ぎ越し」は、旧約の言葉で「パスハ」と言います。ヨーロッパの教会では、これをそのまま受け継いで、復活祭のことを「パスクア」、「パック」などと言います(ただし、英語とドイツ語は全く別の言葉を使います)。ですから、復活は「過ぎ越し」という意味なのです。苦しみや心の傷を過ぎ越して、未来に向かって歩み、復活のまことの喜びに到達するのです。

キリスト教の時間の概念は、始めがあり終わりがある、というものです。同じことの繰り返しはありません。終末における救いの完成に向かって生きているのです。今年のイースター(復活祭)も、イエス様の十字架の姿に結び合わされ、苦しいことや困難をまた一つ過ぎ越して、復活の恵みにあずかりましょう。

2017年3月「荒れ野の誘惑」

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

(マタイによる福音書4章4節)

                       牧師 黒 田 浩 史

3月1日(水)からレント(四旬節)に入りました。イースター(復活節)に洗礼を受ける人の準備のための40日間の季節として発達したものです。既に洗礼を受けた人にとっても、洗礼の恵みを思い起こし、これまでの歩みを振り返ったり、神様の恵みに心を向けたりして、新しく生まれ変わるための季節です。

イエス様は、洗礼を受けられてから、聖霊によって荒れ野に導かれ、40日間、昼も夜も断食した後、悪魔による誘惑を受けられました。荒れ野は、何もないところなので、神様から私たちを引き離そうとする悪魔の企みが、見えやすいところです。豊かなモノや日々の煩いに囲まれていると、善悪の区別もつきにくく、悪魔の働きも見えにくいのです。これにもとづいて、レント(四旬節)の40日間は、贅沢を退けて生活をシンプルにし、自分が悪魔の誘惑に唆されていないか否かを確かめるという伝統が生まれました。

悪魔はイエス様に三つの誘惑を行いました。一つ目は、「石をパンに変えたらどうだ」という誘惑です。イエス様は40日間、何も食べていないので、おなかが空いていました。これは、物質的なものによって心を満たしたくなる誘惑です。現代の日本に住む多くの人たちは、これほどモノが豊かなのに、さらにモノが欲しいと思っています。

神様の愛で心が満たされていない人は、モノで心を満たそうとするのです。多くの人は物質には困っておらず、愛情に飢えているのです。その心を本当に満たしてくれるのは、イエス様の洗礼の時に聞こえた、「これはわたしの愛する子」という神様の声です(マタイ3:17)。欠点だらけの私たちを、無条件で受け入れ、愛してくださっている神様の愛です。この愛が感じられない人は、いくらモノがたくさんあっても、心は飢え渇いたままなのです。

二つ目の誘惑は、「高いところから飛び降りてみよ」というものでした。普通の人ができない芸当を行って、人々からの賞賛を求めようとする誘惑です。絶えず人の評価を気にして生きている私たちが陥りやすい誘惑です。人から褒められたり、高く評価されるのは気持ちのいいものだからです。これも第1の誘惑と同じで、神様の愛に満たされていない人は、結局は人からの評価によって心を満たす以外にないのです。しかし、神様によって無条件に受け入れられていれば、人からの評価は気にする必要がなくなります。

三つ目の誘惑は、「世界のすべての国々と繁栄を与えよう」というものでした。王様になりたいという誘惑です。世界を支配する王様にまでなりたいと願う人は少ないでしょうが、自分の力の及びそうな小さな範囲で王様になることを欲している人は多いです。家庭や職場や教会などでです。表面上は謙遜な態度を取っている柔和な人でも、本心を隠していることがあります。陰では人の悪口を言っていたり、人とぶつかると本心が出て来てきたりするのです。心の底から謙遜になるのは難しいものです。これも先の二つの誘惑と同じで、神様の愛に満たされていない人は、結局は自分で自分を膨らませる以外にないのです。しかし、「これはわたしの愛する子」という神様の愛が感じられれば、弱くて不完全な自分のままで人に接することができます。

以上のように、悪魔の誘惑と闘うためには、神様の愛に満たされる必要があります。この季節、これまでにいただいた神様の恵みを一つ一つ思い起こし、心を神様の愛で満たすことによって、悪魔の誘惑に打ち克ちましょう。